熊本北聖書キリスト教会

熊本北聖書キリスト教会

2017年12月31日日曜日

『我は聖霊を信ず』久保田 周太郎 先生

2017年12月31日 第5主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:ヨハネの福音書14章10~26節
説教主題: 『我は聖霊を信ず』
招詞:コリント人への手紙第一12章3節a
聖霊によるのでなければ、
だれも「イエスは主です」と言うことはできません。


2017年12月24日日曜日

『貧しい者への福音』久保田 周太郎 先生

2017年12月24日 第4主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:ルカの福音書2章1~20節
説教主題: 『貧しい者への福音』
招詞:ルカの福音書2章11節
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

2017年12月17日日曜日

『いのちのことばを語る』久保田 周太郎 先生

2017年12月17日 第3主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:使徒の働き5章12~20節
説教主題:『いのちのことばを語る』
招詞:使徒の働き5章20節
人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい



2017年12月10日日曜日

『キリストの愛に触れて』久保田 周太郎 先生

2017年12月10日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:ルカの福音書7章36~50節
説教主題:『キリストの愛に触れて』
招詞:ヨハネの手紙第一4章19節
私たちは愛しています。
神がまず私たちを愛してくださったからです。

2017年12月3日日曜日

『全能の神』久保田 周太郎 先生

2017年12月3日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記17章1~8節
説教主題:『全能の神』
招詞:創世記17章1節
わたしは全能の神である。



2017年11月26日日曜日

『イエス・キリストの昇天と再臨』久保田 周太郎 先生

2017年11月26日 第4主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:使徒の働き1章3~11節
説教主題:『イエス・キリストの昇天と再臨』
招詞:使徒の働き1章11節
あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、
天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、
またおいでになります。

2017年11月19日日曜日

『神を欺く罪』久保田 周太郎 先生

2017年11月19日 第3主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:使徒の働き5章1~11節
説教主題:『神を欺く罪』
招詞:ガラテヤ人への手紙6章7節
思い違いをしてはいけません。
神は侮られるような方ではありません。


2017年11月12日日曜日

『こんなに大きな信仰』久保田 周太郎 先生

2017年11月12日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:ルカによる福音書7章7節
説教主題:『こんなに大きな信仰』
招詞:ルカによる福音書7章1~10節
ただ、おことばをいただかせてください。
そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。


2017年11月5日日曜日

『ご覧になる神』久保田 周太郎 先生

2017年11月5日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記16章1~16節
説教主題:『ご覧になる神』
招詞:ヘブル人への手紙13章5節
わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない


2017年10月29日日曜日

『タマルのいのちがけの決断と信仰』浦邉 健二 先生

2017年10月29日 第5主日礼拝
礼拝説教:浦邉 健二 先生
聖書箇所:創世記38章1~30節
説教主題:『タマルのいのちがけの決断と信仰』
招詞:創世記38章26節
ユダは、これを調べて言った。
「あの女は私よりも正しい。
私が彼女をわが子シェラに与えなかったせいだ。」
 

2017年10月22日日曜日

『キリスト以外に救いなし』久保田 周太郎 先生

2017年10月22日 第4主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:使徒の働4章1~22節
説教主題:『キリスト以外に救いなし』
招詞:使徒の働き4章12節
この方以外には、だれによっても救いはありません。



2017年10月15日日曜日

『マイナスからプラスへ』海老原 直宏 先生

2017年10月15日 第3主日礼拝
礼拝説教:海老原直宏先生
聖書箇所:ルカの福音書6章12~19
説教主題:『マイナスからプラスへ』
招詞:ローマ人への手紙8章28節
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。


教会学校
聖書のお話:『アブラムとロト』
聖書箇所:創世記13章
暗唱聖句:マタイの福音書5章9節
平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子どもと呼ばれるから


2017年10月8日日曜日

『十二使徒の使命』久保田 周太郎 先生

2017年10月8日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:ルカの福音書6章12~19
説教主題:『十二使徒の使命』
招詞:詩篇51篇12節


あなたの救いの喜びを、私に返し 、喜んで仕える霊が、
私をささえますように。

教会学校
聖書のお話:『エジプトでの失敗』
聖書箇所:創世記12章10~20節
暗唱聖句:箴言29章25節
人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる



2017年10月1日日曜日

『可能性はただ神に』久保田 周太郎 先生

2017年10月1日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記15章1~6節
説教主題:『可能性はただ神に』
招詞:創世記15章6節

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
教会学校
聖書のお話:『アブラムの旅立ち』
聖書箇所:創世記11章27節〜12章9節
暗唱聖句:ヘブル人への手紙11章8節
信仰によって、アブラハムは、
相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けた時、
これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。



2017年9月29日金曜日

今日の青年会

今日の青年会。 
 
日中はまだ残暑を感じる熊本ですが、 
夜風はかなり涼しい秋模様。 
 
気づけば9月も終わりにさしかかり、 
秋も深まりつつあるんですね。 
 
あったかい鍋ものが美味しくなりますね。 
 
 
// 
 
 
これまで読み進めてきた 
シュラッターの 
ヘブル人への手紙講解が、 
本日が最後となりました。 
 
今日はヘブル書は13章、最後の章で 
 
「キリスト教会の秩序」 
 
というテーマでした。 
 
 
 
これまでヘブル書では、 
キリストの血の価値、 
祭司としての完全性について 
旧約と新約との明確な対比において 
論じられてきました。 
 
私たちのキリスト信仰の中核をなす、 
まぎれもない霊的事実の詳述です。 
 
見事なまでに、キリストは 
旧約の律法を踏襲して、 
獣の血の犠牲との対比で 
自らを完全な捧げ物として犠牲にされ、 
永遠の大祭司として神の右につかれました。 
 
 
・・・このような、 
私たちが使徒信条で常日頃唱えている 
信仰内容が、ヘブル書には 
いたるところに散りばめられています。 
 
そして明らかになった私たちの救いは、 
私たちの信じる力ではなく、 
信仰をさえ私たちに賜り、 
完成されたキリストにかかっていること。 
 
私たちの力には一切依存せず、 
神との和解がもたれること。 
 
だからこそ、完全な希望となるわけです。 
 
 
神との和解において 
私たち自身から何か必要であれば、 
望みはありません。 
 
一切私たちに拠らないで、 
キリストにかかっているからこそ 
希望なのです。 
 
 
この希望を共有するからこそ、 
教会はキリストのからだとして建てられ、 
みなは兄弟姉妹として 
神の家族となるわけです。 
 
 
この神の家族に属することが 
どれほど祝福に満ちていることかを、 
私たちはますます 
噛みしめないといけないでしょう。 
 
 
キリストが愛された教会。 
主にある神の家族。 
 
 
この教会認識を踏まえて、 
ヘブル書の著者は 
兄弟愛と、清い結婚と、 
金銭に無欲であることを掲げます。 
 
 
より実践的なこれらの教えは、 
御霊の実が結実したような佇まいでしょう。 
 
キリスト者の生活のガイドラインとして、 
自己点検しつつ 
自分もキリストのからだ一部として 
教会を秩序立てていきたいものです。 
 
 
 
ヘブル書は、 
純化された信仰内容の凝縮されつつも、 
直接的な激励の言葉がたくさんあります。 
 
2000年前にキリスト者であることが 
社会的には一切の利益にならなかった時代。 
 
社会的には圧倒的な弱者であった 
キリスト者に向けて、 
非常に力強いゆるがない希望を掲げ 
励ますこの手紙は、 
キリスト者として今を生きる私たちにも 
深く響いてきます。 
 
キリストのからだとして、 
互いに励まし合い、愛し合い、 
賛美をささげ合いながら歩むことは、 
今も昔もこれからも変わりありません。 
 
 
実に多くの霊感と確信が得られる 
ヘブル書は、 
希望がかすむときにこそ読み直したいものです。 
 
 
 
// 
 
 
 
実は本日でここでの青年会を 
一旦の区切りとして終わります。 
(第2子の出産を控えているため) 
 
 
これまで多くの祈りによって 
支えてくださったこと、 
心より感謝いたします。 
 
 
ヘブル書10章25節の 
 
「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」 
 
とあるように、 
これからも何らかの形で 
教会に仕える活動を続けたいと思います。



2017年9月24日日曜日

『キリストの十字架と復活』久保田 周太郎 先生

2017年9月24日 第4主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:使徒の働き3章11~26節
説教主題:『キリストの十字架と復活』
招詞:ヨハネの手紙第一 4章9節
神はそのひとり子を世に遣わし、
その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。
教会学校
聖書のお話:『タラントのたとえ』
聖書箇所:マタイの福音書25章14~30節
暗唱聖句:マタイの福音書25章21節
よくやった。良い忠実はしもべだ。
あなたは、わずかな物に忠実だったから、
私はあなたにたくさんの物を任せよう。


2017年9月22日金曜日

今日の青年会

今日の青年会。 
 
ここのところ秋雨かな?という天候が続いていて、涼しくはなってきていますがやや湿気が多いですね。 
 
夜は涼しげな虫が鳴いている中、今晩も 
シュラッターのヘブル人への手紙講解を 
読み進めました。 
 
 
 
今日は12章の後半。 
 
信仰の先人たちの人生が紹介された、 
11章の信仰の章を踏まえての激励の言葉。 
 
私たちの眼の前にある競争を 
忍耐を持って走り抜こう、 
信仰の創始者であり完成者である 
イエスから目を離さないでいよう。 
 
 
というように、 
ここまでの手紙の内容をふまえて 
キリストの体として教会に建てられている 
私たちを徹底的に励まします。 
 
 
私たちは、痛みや苦難に直面すると 
本能的に拒み、避けようとしますが、 
逃げることで成長することはありません。 
 
むしろ、神に対してかたくなになり、 
ますます視野が狭くなってしまいます。 
 
 
このような性質をもった私たちは、 
適切な訓練を受けなければ、 
人生を台無しにしてしまいます。 
 
 
言うまでもなく、 
子を愛する親は子を訓練します。 
 
人間的な身勝手さにおいて 
一時的な訓練を施す肉親である親ですら、 
子に愛を注ぐわけです。 
 
まして一生涯たゆむことなく 
平安な義の実を結ばせるべく訓練し続ける 
創造主である父なる神が、 
どれほど私たちを愛しておられるか。 
 
 
苦難や痛みを通してこそ神を近くに感じ、 
子として特別に 
愛されていることを思うべきでしょう。 
 
 
信仰者としての歩みは、 
聖書に登場してくる先人たちのように 
決してたやすいものではなく、 
むしろ困難の方が多いと暗示されますが、 
だからこそ著者は読者を激励します。 
 
 
これは 
初代教会のユダヤ人キリスト者たちに向けて 
書かれた手紙ですが、 
まったく今の私たちに向けられた言葉として 
肉迫してきます。 
 
 
12章の内容は、 
10:24-25に要約されているように 
まさしく、集まることをやめないで、 
互いに勧め合い、愛と善行に進むことを 
促しています。 
 
 
イエスの血の贖いによる、 
神の家のメンバーとして神の国を相続する、 
その途方もなく大きな約束を受けた私たち。 
 
この世のどこにもない祝福が 
約束されている希望があるのだから、 
ますます主にあって歩み、 
平和と聖さとにあずかろうではないか。 
 
 
…というように、この著者は何度も 
私たちが握りしめている希望を思い起こさせ 
目の前にある働きへの活力を喚起します。 
 
 
主の御名のもとに集い、 
同じ神の家のメンバーとして 
いつも希望を分かち合うこと。 
 
この喜ばしい姿は、今も昔も変わらない 
キリストの祝福に招かれた者たちの特権で、 
共に神の安息に導き入れられる共同体です。 
 
身に余る祝福に溢れるからこそ、 
この地上の歩みにおいて 
感謝をもって主に仕えていくことが 
私たちにとって自然で、 
また、それが神との正しい関係性です。 
 
 
 
今置かれている場や与えられている役割が 
どのようなものであれ、 
主に遣わされた者として 
感謝をもって働きたいものです。 
 
 
神の家族として、 
同じ神に生かされる喜びを分け合い、 
祈りに覚え合いながら 
励まし合いながら歩んでいきましょう。


2017年9月17日日曜日

『いのちの源』久保田 周太郎 先生

2017年9月17日 第3主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:使徒の働き3章11~26節
説教主題:『いのちの源』
招詞:使徒の働き3章15節
しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。
教会学校
聖書のお話:『愚かな金持ち』
聖書箇所:ルカの福音書12章13~21節, マタイの福音書6章19~20節
暗唱聖句:マタイの福音書6章20節
自分の宝は、天にたくわえなさい


2017年9月15日金曜日

今日の青年会。

今日の青年会。

秋っぽくなってきたかなと思いきや、
ちょっと湿気の多い夜。

今日もいつものメンバーで聖書を開くことが出来ました。


シュラッターのヘブル人への手紙講解も、
残すところあと3回ですが、
ヘブル書もいよいよ大詰め。

今日は12章1~8節でした。


11章の信仰の先人たちの人生を踏まえ、
「こういうわけで」と
続くのが12章です。


聖書に登場する信仰者たちが、
どのような境遇にあり、
神と向き合い、信仰を貫いたか。

そして、どのような結末を迎えたか。


聖書には数多くの信仰者が登場しますが、
その人生、生き様は、
私たちと同じ人間だからこそ
よく響いてきます。

同じように人間臭く、
神の前に正しくない存在ではありますが、
それでもなおも神に期待を寄せ、
神からの約束を握りしめているわけです。

そして神の応答を得た彼らの歩みの記録は、
思い悩む私たちにとって
大きな励ましとなります。



こういったことを踏まえて、
神のことばを最後まで握りしめた
信仰の先人たちのように、
私たちもそれぞれ招かれている
信仰の道をしっかりと進もうではないか。

とヘブル書の著者は激励します。


「競争」というたとえで
私たちの信仰の歩みが描かれていますが、
これは普段意識しない、
盲点ではないかと思います。

信仰をもつことが、
どうして競争であるのか、と。



普通「競争」は、
どうしても勝ちたい、獲得したいという
参加者全員共通のゴールがあるものですが、
こと信仰に関しては、
そのような熱心さがあるだろうか?
とふと思わされます。


信仰を持って、教会に通い、
日々を過ごしていくうちに、
「競争」するような熱心さをもって
神の約束の喜びを握りしめているか?

と、問われる箇所です。


イエスがどれほどの苦しみを受け、
私たちに信仰を贈り、完成させたか。

イエスが一体どのような喜びを
目の前にしていたために、
苦しみをものともせず
自らを犠牲にされたのか。


そのイエスの喜びとは、
私たちが神のもとに帰ること。

同じ神の子とされ、
神の家族として祝福を受けること。


このような、神のご計画を
すべてご存知だったからこそ、
主は私たちの罪を処分されました。


私たちがこの地上の歩みで味わう
困難は、キリストの受けた苦しみとは
比べるほどのものでもないでしょう。


どれほどのことを
主がなしてくださったのか覚え、
与えられている信仰を日々点検しつつ
神が与える愛ある訓練として、
置かれた場における働きを
日々まっとうしていきたいものです。


2017年9月10日日曜日

『新しいぶとう酒は新しい革袋に』

2017年9月10日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記14章13~24節
説教主題:『新しいぶとう酒は新しい革袋に』
招詞:ルカの福音書5章38節
新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければなりません。
教会学校
聖書のお話:『よいサマリヤ人』
聖書箇所:ルカの福音書10章25~37節
暗唱聖句:ルカの福音書10章27節
あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ


2017年9月8日金曜日

今日の青年会

9月に入り秋を予感させる風が吹いて、 
汁物が美味しくなってきましたね。 
 
でも、ここのところまた 
あの暑い夏を思い出すような暑さ、 
湿気があり、まだまだ油断なりません。 
 
 
今晩もヘブル書を開いて 
シュラッターの解説書を読み込みました。 
 
ヘブル11章の7~39節です。 
 
 
信仰とは何か、を 
ヘブル書では実に明快に語っています。 
 
まだ受け取っていない 
神からの嗣業を、 
すでに受け取ったかのようにつかむこと。 
 
 
それが信仰であると。 
 
 
もっと言えば、 
信仰は神の御言葉を 
その通りだと主体的に宣言すること。 
 
自分と神との関係においてのみ意味をなす、 
自分の意志だけが問われる、 
形のないもの。 
 
決して人任せにはできず、 
自分のこととしてしか語れない 
神との関係を示す各自の霊性こそが 
信仰なのだということを学びました。 
 
 
今日は、 
聖書に登場してくる旧約の時代の 
信仰の偉人たちの箇所でした。 
 
彼らは、この世的には 
まったく確証のない神の御言葉だけを 
しっかりと握りしめて生き抜きました。 
 
ノア、アブラハム、 
イサク、ヤコブ、モーセ… 
 
とイスラエルの歴史に名を残した 
信仰者たちは、常に 
神の約束を手にしていました。 
 
それが、その人生で果たされたわけでも 
ないのですが、 
彼らは至福の安息を得て世を去りました。 
 
 
地上において物質的、 
経済的な豊かさを私たちは 
無意識に求めてしまうもので、 
それこそ神の祝福だと考えがちです。 
 
 
ですが、聖書の信仰者たちは、 
肉体において味わえる安息や豊かさよりも、 
神の国において得られる 
霊的な豊かさから目を離しませんでした。 
 
 
キリスト教会の歴史を見ても、 
経済的、社会的にも 
完全に迫害を受けて苦しみしかない時代。 
 
それでも初代教会から何百年も、 
信仰の火を絶やさなかった 
信仰の先駆者たちがいました。 
 
地上では何の喜びもないはずの、 
キリスト信仰は、 
彼らにとっては永遠の喜びだと 
死ぬまでして表明し続けたのです。 
 
 
私たちの今の暮らしにおいては 
そのような試練はまれですが、 
だからこそ、平凡な日々の中で 
信仰の火が気づかぬ間に消えぬように 
しっかりとキリストを前において 
歩まなければならないと思わされます。 
 
 
 
みことばを読み、祈り、賛美をしても 
どこかで肉的な豊かさを求めてしまう 
私たちは、信仰によって得られる 
神の本当の祝福を切に求めたいものです。 
 

2017年9月3日日曜日

『永遠なる大祭司』久保田 周太郎 先生

2017年9月3日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記14章13~24節
説教主題:『永遠なる大祭司』
招詞:ヘブル人への手紙5章6節
あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。
教会学校
聖書のお話:『赦さなかったしもべ』
聖書箇所:マタイの福音書18章21~35節
暗唱聖句:エペソ人への手紙4章32節

お互いに親切にし、心の優しい人となり、
神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、
互いに赦し合いなさい。


2017年8月31日木曜日

今日の青年会

今日の青年会。 
 
暑い日が続く中、8月最後の開催。 
 
少しずつ秋の気配が感じられるように 
なってきました。 
 
 
今晩も、シュラッターの 
ヘブル人への手紙講解を読み進めました。 
 
先週までで、やや長かった 
「完全なる大祭司キリスト」 
という、私たちの信仰の 
内容そのものの詳解が終わりました。 
 
私たちは一体何を信じているのか? 
 
という最も大切な部分は、 
毎週礼拝を重ねていても、 
毎日みことばを読んでいたとしても、 
どうしても形骸化してしまうので 
ここまでの学びは
非常に実りのあるものでした。 
 

キリストの血の価値を、 
この私はどれほど理解しているのか。
 
理解しようもないけれども、 
少なくとも理解しようと願っているか。 
 

..こう問われるほど、 
重要かつ新鮮な内容ばかりでした。 
 
 
私たちが信じているはずの内容そのものが、 
あますところなく語られているのですから。 
 
 

また、その神の新しい契約が 
どれほど希望に満ちているものなのか、 
内容を味わえば味わうほど 
私たちに迫ってくるかのように思えます。 
 
 
———————————————————— 
ヘブル10:23 
約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。 
———————————————————— 
 
 
とあるように、 
私たちに与えられている希望を 
告白し合うことが、そのまま励ましになる。 
 
永遠の希望を持つもの同士の集まりが、
他でもなくキリストのからだ、 
教会なのだと思い至ります。 
 
 
そしてこの信仰こそが、 
教会に集うもの同士を結び合わせ 
教会生活を豊かにする土台であり、 
信仰に立つからこそ、 
愛の熱心によって互いに励まし、 
高め合えるわけです。 
 
 
神の家族とはよく言ったものだと思います。 
 
 
そして、今日学んだ箇所は、 
ヘブル書の11章前半。 
 
「信仰」をテーマとして、 
数々の歴代の信仰の先輩たちが 
次々と登場してくるところです。 
 
 
やや形而上的な話になりますが、 
 
「信仰」とは何か? 
 
を、徹底的に詳述する箇所でもありました。 
 
 
 
シュラッターの解説は、 
 
「信仰とは、希望しているものに固着しつづけ、まだ見ていないものを確信することである」 
 
としていました。 
 
 
私たちが身を置いているこの世界は、 
どこか物質主義的で、 
なんでも計測し、なんでも計量し、 
物的に捉えられないものは不確かだとして 
否定しがちな価値観が大半です。 
 
唯物的だからこそ、 
目に見えない神を知ろうともしないし、 
物質至上主義だからこそ、 
人間ですら偶然発生した 
進化の産物だとして疑わないわけです。 
 
 
いざ神のこと、聖霊のこと、 
キリストの死と復活のことを語れば、 
つくりごととして片付ける世の中です。 
 
たとえ眼球・脳で何か捉えられたとしても、 
それは光を捉えただけあって、 
信じるという行為とは違います。 
 
 
肉体で知覚したということと、 
信じることとは 
まったく次元が異なる働きなのです。 
 
 
信じるとは、 
自分の知覚できる領域をはるかに超えて、 
まるごと受容すること。 
 
理屈や根拠など、感覚的な知覚など
一切の因果を必要とせずに 
ダイレクトに霊的内容を受容することです。 
 
 
 
だからこそ、霊の働きである信仰によって 
この世界を創造した神を知ることが 
できるわけです。 
 
感覚器官で捉えたものは、 
あくまで物質的なものでしかなく、 
被造物の領域です。 
 
そこに神はいません。 
 
 
見えないからこそ、 
私たちの感覚器官で捉えられないからこそ 
私たちの霊によって、信仰によって、
霊なる神を知ることができるわけです。 
 
 
信仰は、霊的な行為であり、
見えない神の御言葉を受け止めること。
 
 
まだ手にしていないもの、 
既に獲得したものとして受容すること。 
 
他の一切の説明を必要とせず、 
ただ主体的に、能動的に、 
自分ごととして霊なる神に関わること。 
 
 
 
.. 
 
 
改めて、信仰がなんなのかと 
説明を求められたとして 
うまく答えられる自信はありませんが、 
 
ひとつ言えるのは、 
信仰は、神のみことばを、 
自分の意志以外の一切を必要とせず 
 
「その通りだ」 
 
と言わしめるものだということです。 
 
 
他の誰が何と言おうと、神のみことばを 
「その通りだ」と告白する態度。 
 
それが信仰なのではないか、 
と思わされました。 
 
 
 
あくまで受け身でなく、 
能動的であることこそ 
信仰者の姿なのだと思います。 
 
 
 
この与えられている信仰を、
希望を確信させる信仰を
あくまで握りしめ続けて歩みたいものです。


2017年8月27日日曜日

『贖罪愛の嘆き』森下 薫 先生

2017年8月27日 第4主日礼拝
礼拝説教:森下 薫 先生
聖書箇所:ルカの福音書24章25~28節
説教主題:『贖罪愛の嘆き』
招詞:ルカの福音書24章25~26節

するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。
預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、
彼の栄光に入るはずではなかったですか。」

教会学校
聖書のお話:『種まきのたとえ』
聖書箇所:マタイの福音書13章1~23節
暗唱聖句:マタイの福音書13章23節

良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、
その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、
あるものは三十倍の実を結びます


2017年8月25日金曜日

今日の青年会

今日の青年会。 
 
暑い日が続く中、 
こうして人ところに集まって 
聖書を開き、 
自分の霊的なあり方を点検するひと時。 
 
集まるからこそ意味があるのだと、 
改めて思わされます。 
 
教会も、建物を指しているのではなく、 
集まりそのものが本質なのは 
こういうことなのかなと感じています。 
 
 
・・ 
 
 
引き続きシュラッターの 
ヘブル人への手紙 講解を読んでいます。 
 
今日で7~10章の、 
イエスの祭司としての完全性について 
が終わりますが、非常に密度が高く、 
霊的な養いを感じることができます。 
 
 
私たちの信じている内容の核心が、 
過不足なく語られているのがヘブル書。 
 
キリストに結ばれることの意味と、 
希望とが余すところなく記されています。 
 
 
特に、なぜ、キリストの血に 
それほどの価値があり、 
私たちの罪を永遠に拭うものなのか、 
キリストが大祭司と呼ばれるのは 
なぜなのか、網羅されています。 
 
 
キリストを受け入れることが、 
神との関係を修復する唯一の道であること、 
この、普段慣れ親しんでいる 
信じれば救われるということの内訳が、 
じっくりと心に入ってくるような感覚です。 
 
 
 
これまで学んできたのは 
キリストの血の価値、 
キリストの犠牲の完全性についてでしたが、 
今日の箇所では、教会について 
が主なテーマでした。 
 
 
キリストの完全な犠牲によって、 
私たちは神の子とされ、 
本来の姿に生かされるようになること。 
 
キリストによる贖い(買い戻し)によって、 
キリストのものとなること。 
 
それは、散々聞き知っていたことですが、 
重要なのは、「そのあと」です。 
 
 
 
キリストを信じて洗礼を受けたはいいが、 
「そのあと」がなければ意味がありません。 
 
 
ヘブル書10章の後半は、 
かなり手厳しいことばが並びます。 
 
 
———————————————————— 
ヘブル10:25-26 
<ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。> 
———————————————————— 
 
 
キリストの血の価値、 
犠牲の一回性、永遠性が提示するのは、 
想像を絶するほどの希望です。 
 
その希望にあって、私たちは 
この地上での困難な歩みを乗り越え、 
人生の意味を見出し、 
苦しくても喜び耐え忍ぶことができます。 
 
キリストに結ばれ、永遠のいのちを得る 
希望が、文字どおり福音なわけです。 
 
 
この手紙は、 
キリストの贖いがもたらした希望によって、 
またその確信によって、 
互いに励まし合うように勧めています。 
 
 
単なる神学的な論文ではなく、 
現実に迫害を受けている神の家族に宛てた、 
励ましの手紙というわけです。 
 
 
私たちが手につかんでいる希望が、 
一体どれほどの価値があるのか 
改めて味わい直し、勇気を取り戻し、 
励ましあい、大胆に生きよう、と。 
 
 
そして著者は、互いに集まり合うこと、 
愛と善行を促し合うようにと 
強く推奨しています。 
 
 
 
・・このあたりから、 
現在私たちの集う教会のことを 
考える材料が提示されていると思いました。 
 
 
私たちは、愛の熱心によって、 
互いに忠告し合っているだろうか? 
 
神よりも人の目を気にして、 
波風立てない人間関係に終始していないか? 
 
わがままな自己主張を押し付けるのでなく、 
真心からの愛の熱心で、 
傷つけること傷つくことを恐れずに、 
主にあって勧め合うことをやめていないか? 
 
 
 
など、まさに今を生きる 
私たちの教会生活に必要な指摘です。 
 
 
 
キリストに贖われたことを受け入れ、 
その希望を分かち合う兄弟姉妹と 
教会生活をどのように過ごすか。 
 
 
非常に実践的だと思います。 
 
 
キリストが再度来られるまでは、確かに 
永遠のいのちの約束はいただいていますが、 
まだキリストに似た姿には 
変えられていません。 
 
 
私たちは、ゴールにいるのではなく、 
まだ途上にあるということ。 
 
だから、励まし合い、勧め合い、 
互いに希望を告白し合って、 
主にあるいのちを捧げ合っていくこと。 
 
 
 
この世の真逆を行く、 
困難でも喜びに満ちた歩みが 
私たちに示されているとは、 
なんとも素晴らしい恵みです。 
 
 
 
 
ヘブル書は、 
このキリストの贖いの完全性のあと、 
信仰そのものについて展開していきます。 
 
信仰は、単なる希望にとどまらず、 
努力であり、要求であり、走ること。 
 
そのようにシュラッターは 
解説していましたが、 
どのような学びがあるのか 
11章以降も楽しみです。 
 
 
 
いつもお祈りありがとうございます。 
 
  


2017年8月20日日曜日

『キリストの御名によって歩け』久保田 周太郎 先生

2017年8月20日 第3主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:使徒の働き3章1~10節
説教主題:『キリストの御名によって歩け』
招詞:使徒の働き3章6節

金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。
ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。

教会学校
聖書のお話:『みことばによっていきる』
聖書箇所:詩篇1:1~3, 119:105, IIテモテ1:5, 3:14~17
暗唱聖句:詩篇119:105

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。



2017年8月13日日曜日

『中風の男のいやし』久保田 周太郎 先生

2017年8月13日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:ルカの福音書5章17~26節
説教主題:『中風の男のいやし』
招詞:ルカの福音書5章20節

彼らの信仰を見て、
イエスは『友よ。あなたの罪は赦されました』と言われた

教会学校
聖書のお話:『聖書の目的』
聖書箇所:ヨハネ20章30~31節, 1コリント15章3~4節、使徒17章10~15節
暗唱聖句:ヨハネの福音書20章31節

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、
あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、
イエスの御名によって命を得るためである。



2017年8月11日金曜日

今日の青年会

今日の青年会。 
 
暑い日が続いていますが、 
体調など気をつけて 
過ごされていることと思います。 
 
 
さて、今日も変わらずに 
シュラッターの『ヘブル人への手紙 講解』 
の続きを読んでおりました。 
 
今日は10章1~23節。 
 
大祭司イエスの完全性についての続きです。 
 
 
前回が、イエスの尊い血の価値、 
その最高の捧げ物が 
私たちと神様との分離を取り除き、 
罪をぬぐい去り、永遠のいのちへと導く、 
私たちになくてはならない犠牲について 
学びました。 
 
 
今日の箇所も、前回の内容を踏まえており、 
基本的に旧約との比較です。 
 
旧約の律法による犠牲は、 
獣の血であり、人間以下の存在の犠牲、 
しかも、自分の意志ではない捧げ物。 
 
その犠牲は、捧げるたびに 
罪の悔い改めへと導く力があったが、 
何度も終わりなく捧げなければならない 
という、ある種の限界がありました。 
 
尊い形式ではあるものの、 
形式の限界には至らないもの。 
 
肉的な清め、表面的な清め。 
それが旧約の犠牲の限界だとされます。 
 
それに対して、キリストの血の犠牲は、 
どれほどに優れているのか。 
 
単なる血のささげものではなく、 
それが私たちの心の奥底に染み渡り、 
霊性を清める働きを持ち、 
今現在もその力が働く。 
 
終わることのなく、 
休む間のない働きに追われる 
旧約の律法の定めとは完全に異なり、 
ただの一度で罪の清めを完成させる業。 
 
それがキリストのされたことであるし、 
それだけの価値がキリストの血にある。 
 
私たちのためにそうされたということ。 
キリストの血なしには、 
私たちは神の御前に清められないこと。 
 
 
このような 
私たちの信仰の中核の部分が 
ヘブル書には明瞭につづられています。 
 
 
また、非常に重要な 
私たちの歴史的な、時間的な位置づけも 
書かれています。 
 
キリストが復活され、昇天されてのち、 
もう2000年くらい時間が経っていますが、 
今はどのような時代なのか? 
私たちはどのような位置にあるのか? 
 
と考えることがあると思いますが、 
聖書的な理解では、 
キリストの再臨を待っている状態です。 
 
 
また、その瞬間私たちは 
完全な姿へと変えられるという約束。 
裏を返せば、 
今、このままの状態が 
完全ではないということです。 
 
信仰を持って、教会に通うクリスチャン。 
 
現実の私たちは 
自分の弱さ醜さ罪深さを 
いつもうっすらとどこかに感じていて、 
地上の歩みにおいては完全な姿ではない。 
そのことを、理解し、 
受け止めているだけにすぎません。 
 
世の人と何ら変わりませんし、 
むしろ悪く見えることだってあるでしょう。 
 
 
地上の歩みにおいては、 
完全な姿ではないのが私たちの現実です。 
 
けれども、 
神の前に罪穢れのない姿に変えられる、 
完全な姿に変えられる、 
その約束が与えられています。 
 
 
それが、キリストの血の価値です。 
 
 
すべて罪の処分は、キリストの血によって 
完成しており、その永遠の賜物を 
受け取る約束を待っているのが、 
この地上を歩む私たちの状態です。 
 
私たちの行為や、所有や状態が 
私たちを清めるのではなく、 
キリストの御業だけがそうするという信仰。 
 
これがどれほど恵みに満ちたものなのかを、 
私たちは日々深く味わうべきなのです。 
 
 
だから、この手紙は、 
かさねがさね 
この希望を告白し合いなさいと、 
励まし合うように勧めています。 
 
どれほどの素晴らしい恵みを受けたか、 
その霊的事実の確認をすることが 
どれほど祝福に満ちたものであるか 
と示しています。 
 
 
 
神の御前に清められるためには、 
何もすることはなく 
ただ信仰によって 
イエスの御業を受け止めること。 
 
これがどれほど大きな恵みであるか確認し、 
喜びを分け合い、 
ますます神のみもとに近づくこと。 
 
 
この信仰の共同体が教会であるし、 
共通の土台なのだな、と 
改めて思わされる学びとなりました。 
 
 
 
ヘブル書は、 
私たちの信仰の中核を 
あますところなく記しているので、 
非常に味わい深いです。



2017年8月6日日曜日

『間接的信仰』久保田 周太郎 先生

2017年8月6日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記13章1~18節
説教主題:『間接的信仰』
招詞:創世記13章4節b

その所でアブラムは、主の御名によって祈った。
教会学校
聖書のお話:『聖書は神のことば』
聖書箇所:エレミヤ36章, 2ペテロ1章20~21節
暗唱聖句:1ペテロ1章24~25節

人はみなくさのようで、その栄は、みなくさの花のようだ。
草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。



2017年8月3日木曜日

今日の青年会

8月に入りました。 
 
夏真っ盛り、 
非常に暑くなっていますね。 
 
体力削られますので 
健康が支えられるように祈ります。 
 
 
 
今日も青年会では 
シュラッターのヘブル人への手紙講解 
を読み進めました。 
 
7~10章のテーマが 
イエスの祭司としての完全性なので、 
今日もその続きです。 
 
 
ヘブル書は旧新の比較を軸に 
論が展開されることが多いですが、 
今日読んだ9章も、 
わかりやすい構成でした。 
 
旧約聖書と新約聖書の違い。 
模造としての旧い契約と、 
大祭司イエスによる新しい契約。 
 
 
この章の最大の力点は、 
イエスの血の価値についてです。 
 
私たちが「血」と聞いて 
まずイメージするのは 
私たちの体内を駆け巡る赤い体液。 
 
物質としての「血」というイメージが 
先行してしまいます。 
 
そして、世の中の大多数が 
イエスの死を、額面通り 
一人の人が十字架で死んだ 
としか受け取りません。 
 
そこに何の価値も見出せないわけです。 
 
 
ですが、私たちの信仰は、 
このイエスの死にむしろ礎があります。 
 
イエスの死の意味こそが、 
私たちの信仰の中核にあり、 
何よりも尊い価値を持っているのですね。 
 
 
9章は、特にこのイエスの血について、 
非常に深い霊的なイメージが 
詳述されているように思いました。 
 
 
私たちに永遠の嗣業を渡すという 
新しい契約という遺言は、 
贈与する者が死ななければ効力がない。 
 
その、「遺言」の 
一般的な効力について 
聖書においても踏襲されているのには、 
新鮮な思いがします。 
 
私たちの世界の法ですら、 
「遺言」は、死して初めて効力を持つ。 
 
ならば、神の法は 
なおさらそうであるというロジック。 
 
 
イエスがなぜ死ななければならなかったか。 
 
私たちはイエスの死によって 
なぜ、永遠の救いを得ることができたか。 
 
 
この私たちの信仰の中心内容が、 
「イエスの血による贖い」に凝縮されており 
だからこそ、 
イエスの血には永遠の力をもつほどの 
価値があるということが、 
改めて深い次元で理解させられます。 
 
 
イエスの血という 
罪汚れのない、最前最高の捧げ物が、 
私たちのためにささげられたという事実。 
 
 
これこそが、 
イエスを大祭司たらしめているものです。 
 
 
今も天の至聖所において 
私たちのとりなしをしておられ、 
大祭司の働きを担われているイエス。 
 
旧約の大祭司が 
年に一度、血の捧げ物を携えて 
ただ一人で至聖所に入るのと、 
まったく同じイメージをなぞるように 
イエスは天の至聖所に入られたと記される 
霊的な事実はとても印象的です。 
 
 
 
イエスの血の価値が、 
いまひとつ理解できない私たちは、 
生涯をかけて主の支払われた 
尊い犠牲が、私のためであったと 
味わっていくのだと思わされます。 
 
無償でうけとったものは 
やはりその価値の重みがわかりづらいもの。 
 
だからこそ、聖霊の働きによって 
自分の罪を自覚し、 
その罪の処分のために 
イエスが血を流されたと知るならば、 
次第にその価値の重みがわかるようになる。 
 
 
そのような理解をしています。 
 
 
 
主イエスが誰のために血を流されたか、 
それは他でもなくこの私だ。 
 
このように素直に告白できるような 
信仰へと、日々養われていきたいものです。 
 

2017年7月30日日曜日

『おとめマリヤより生まれ』久保田 周太郎 先生

2017年7月30日 第5主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:ガラテヤ人への手紙4章1~7節
説教主題:『おとめマリヤより生まれ』
招詞:ガラテヤ人への手紙4章6節
神は『アバ、父』と呼ぶ、
御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
教会学校
聖書のお話:『ザアカイ』
聖書箇所:ルカの福音書19章1~10節
暗唱聖句:ルカの福音書19章10節
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです

2017年7月27日木曜日

今日の青年会

7月最後の青年会。 
 
猛暑日が続いていて、 
とても暑いですね。 
 
よく毎週できているなぁと 
祈られていることに感謝しております。 
 
 
さて、いつものように 
今日もシュラッターの 
ヘブル人への手紙の講解を読んでいます。 
 
本日はヘブル8章~9章12節。 
 
前回の7章のテーマの続きで、 
完全なる祭司としてのイエス 
を見ていっています。 
 
 
2017年、この日本に生きる私たちは 
とてもじゃありませんが 
古代のイスラエルの、 
モーセの律法の規定が 
生活に密着していたことが 
なかなかイメージ出来ません。 
 
出エジプト記も、レビ記も、 
文字以上でもそれ以下でもない 
といった付き合い方をしてしましますが、 
当時は、それが生活の中心でした。 
 
 
一方で、こうして聖書として 
旧約・新約とまとめあげられ 
日常的に読めるようになっている今、 
それらがどのような関係にあるのか 
どれだけ理解しているでしょうか? 
 
「旧約」とは、文字どおり古い契約。 
「新約」とは、新しい契約。 
 
何が新しく、何が古いのか。 
 
聖書を手に取った瞬間に 
投げかけられるはずの問いが、 
ずっと足元にあるはずなのですが 
あまり気にもとめずに聖書を流し読み 
する傾向があるのではないかと思います。 
 
 
ヘブル書は、この旧約と新約の関係性を 
非常に明瞭に解き明かしています。 
 
 
イエスが、私たちのために死なれ、 
蘇られたこと。 
 
その神学的な土台となる、 
格調高い霊的な記述によって 
明らかにしています。 
 
 
 
「イエス様は私たちの罪のために死なれ、 
蘇られた」という信仰告白は、 
確かにその通りで間違ないのですが、 
 
多くの私たちの現実においては、 
どうもその認識が深められないまま、 
言葉だけがなぞられるにとどまっている感じがします。 
 
 
ヘブル書の言葉を借りれば、 
信仰的に幼いままで 
年数から言えば教師になってもおかしくない 
のに、まだ固い食物が食べれない状態。 
 
甘いミルクばかりを飲んで、 
しかも一向に成長しようとしない。 
 
そのような姿を彷彿とさせます。 
 
 
 
イエスの死と復活の霊的な意味、 
イエスが祭司であることの意味。 
 
その辺りを非常に詳しく記しているのが、 
このヘブル書であり、 
神学的に非常に重要な書物です。 
 
 
また、古い契約がなぜ古く不完全であるか、 
また、イエスの到来において何が成就され、新しい契約がもたらされ、 
天の聖所において大祭司の職を担う 
イエスによって私たちは 
いかに神のみもとに引き寄せられたか。 
 
神と私たちとの関係を修復された、 
イエスの大祭司としての姿が 
このヘブル書において 
徹底的に解明されています。 
 
 
 
正直、シュラッターの詳解を読むだけで 
かなり骨折れるとこで、 
簡単には吸収できるものではありません。 
 
ですが、その格調高い表現の一つ一つに 
これまでザルに水を注ぐように 
読んでいたヘブル書の隠された霊的事実に 
目を開かせられたような思いです。 
 
 
 
ひとところに集まり、 
難解な書物を読みあわせているだけですが 
少しずつ心が耕されている気がします。 
 
 
 
いつもお祈りありがとうございます。 

2017年7月23日日曜日

『ヨルダン川の東と西で』渡辺 英治 先生

2017年7月23日 第4主日礼拝
礼拝説教:渡辺 英治  先生
聖書箇所:ヨシュア記22章1~9, 33~34節
説教主題:『ヨルダン川の東と西で』
招詞:ヨシュア記22章34節
それでルベン族とガド族は、その祭壇を「まことにこれは、
私たちの間で、主が神であるという証拠だ」と呼んだ。
教会学校
聖書のお話:『ラザロの復活』
聖書箇所:ヨハネの福音書11章1~46節
暗唱聖句:ヨハネの福音書11章25節
私は、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。


2017年7月21日金曜日

今日の青年会

今日の青年会。 
 
九州北部もやっとのことで梅雨明け。 
(熊本市内は北部、らしいです..) 
 
これからもっと夏らしい暑さが 
本格化していきますね。 
 
今日の聖書の学びも 
かなりアツくなっておりました。 
 
 
 
シュラッターのヘブル書 講解、 
今日は7章、 
「完全なる祭司イエス」でした。 
 
 
律法に定められた祭司、レビ人と 
神の御子イエスとの比較が 
今回のテーマです。 
 
罪人でもある人間の祭司と、 
一切の汚れない神の御子とは 
比べるまでもないのですが、 
いかにイエスが完全な祭司であり、 
また、旧約の律法が不完全であるか 
7章から読み取ることができます。 
 
 
肉的なものを規定し、 
形式以上のものを与えられない 
旧約の律法には、 
いのちに至らせる力がないこと。 
 
一方で、 
イエスはいのちそのものであり、 
神の御子として力を持たれていること。 
 
 
この比較が、 
旧約の律法が定める祭司と 
神による誓いによって立てられた、 
大祭司イエスとの違いを 
際立たせています。 
 
 
7章にはことあるごとに「メルキゼデク」という大祭司が登場しますが、 
詩篇110:4の、神の誓いの言葉は 
キリストがメルキゼデクの位に等しい 
大祭司としてたてられるという預言です。 
 
 
ところで、この神の誓いの言葉にある 
「メルキゼデク」とは 
一体誰なのか?何者なのか? 
 
 
創世記には神から直接祝福の約束を受けた 
あのアブラハムを祝福し、 
アブラハムから捧げ物を受け取った 
義の王、平和の王として描かれています。 
 
 
ここでは出自も、その他何も情報はなく、 
ただ永遠に神の前に立つ大祭司として 
描かれているわけですが、 
だからこそ、肉的な事柄を規定する 
律法以上の存在として君臨します。 
 
 
神の御子を原型とした祭司として、 
メルキゼデクはレビよりも上位に 
位置付けられるわけです。 
 
 
 
そしてキリストが、 
いかに正当な祭司であり 
地上のどの祭司よりも 
祭司職を全うすることができるか、 
私たちにもっとも必要な 
神の御前に価値ある犠牲を捧げられるかを 
改めて確認させられます。 
 
 
———————————————————— 
 
[この祭司を見つめる時、私たちの罪のためこの契約を疑うよう私たちが動かされることは、決してありえない。なぜなら、もし私たちが、不信仰と不真実から契約を見出し、そこなってしまっても、この祭司は、神の契約による和解の行為によって私たちを支え、私たちを清めることにより、その賜物を私たちに与えるからである。旧約聖書の祭司もまた、契約の保証人であった。しかし、新しい、より高い祭司[キリスト]は、より良い契約に基づいてこられる。彼によって、すべては新しくなる。律法は変えられ、古い契約は、新しい契約にとって代わる。] 
 
———————————————————— 
 
 
神の元へとつなぐ祭司が、 
私たちには絶対的に必要なのですが、 
そのことにすら自覚できないのが 
私たちの現実。 
 
ですが、神の目から見て 
罪のとりなしてが必要なのは明らかで、 
キリストが必要なのは 
私たちの意思に関係ありません。 
 
キリストがいなければ、 
誰もとりなしてはおらず、 
神への反逆、罪は永遠に消えません。 
 
 
旧約の律法では、 
一時的な和解の犠牲を 
律法に定められた祭司が捧げましたが、 
イエスが現れたことによって 
それらは完全に新しい契約に 
とって代わられました。 
 
私たちの信仰は、 
イエスの十字架と復活という 
祭司的な働きそのものにかかっていて、 
イエスを通してのみ神の御前にたてる 
というものです。 
 
 
どれほどまでに 
キリストが私たちに近づき、 
弱さを担い、神にとりなしをして 
希望を私たちに与えておられるか。 
 
どれほど愛され、私たちは 
キリストによる犠牲によって 
キリストのものとなっているのか。 
 
 
キリストの犠牲は、 
永遠に変わりない新鮮さをもって 
今を生きる私たちにも 
いつまでも神の御前に有効な 
尊い犠牲として輝いています。 
 
 
 
神ご自身の誓いによって 
永遠の大祭司としてたてられた 
イエス・キリストが 
どれほど素晴らしい完全な祭司であるか、 
私たちにどうしても必要であるのか、 
深々と味わい直すことができました。 
 
 
8~10章と、まだまだ 
イエスの祭司としての完全性が続きます。 



2017年7月16日日曜日

『使徒ペテロの説教』久保田 周太郎 先生

2017年7月16日 第3主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:使徒の働き2章14~21節
説教主題:『使徒ペテロの説教』
招詞:使徒の働き2章21節
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。
教会学校
聖書のお話:『罪を赦された女』
聖書箇所:ヨハネの福音書8章1~11節
暗唱聖句:ヨハネの福音書8章11節
わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。
今からは決して罪を犯してはなりません。




2017年7月13日木曜日

今日の青年会。

今日の青年会。 
 
一気に真夏の猛暑で、 
かなり暑い日となってました。 
 
また、シュラッターの解説をもとに 
ヘブル書を読み進めています。 
 
 
今日は前回、 
「怠惰な者に対する裁きの言葉」 
の続き、ヘブル6章4~20節でした。 
 
 
 
キリストの福音を知ってなお、 
キリストを拒絶する者には 
もはや何も救いの手立てが残っておらず 
キリストを知る以前の状態よりも 
ひどい結末が待っている、、、 
 
という警告が発せられています。 
 
 
この警告を私たちは 
あまりにも軽く見ているのではないか。 
 
自分はもう何があっても安全で、 
どんなことがあっても堕落はないし、 
仮にそうなったとしても 
神様は赦してくださる。 
 
・・・と都合よく 
自己弁護する傾向があると思うのです。 
 
 
いつも自分だけは特別だと、 
神の目にどうであるかよりも 
自分の基準で自分に合格をだす傾向。 
 
 
そのような心の隙間に向けて 
この警告が向けられているのだと思います。 
 
 
ヘブル書は、ユダヤ人キリスト者に向けて 
書かれたものですが、 
私たちに置き換えれば、 
毎週教会に出席している 
クリスチャンに向けられているようなもの。 
 
 
キリストの福音に一度も触れたことのない、 
信仰をもっていない人に向けられた 
警告ではなく、 
キリスト者に向けられた警告。 
 
 
この意味は想像以上に大きいでしょう。 
 
 
 
神は愛だから、とだけかざして 
自己弁護する私たちは 
神は義なる裁き主である方でもあることを 
どこか忘れてしまいがちです。 
 
 
どのようなキリスト者であっても、 
生きている限りは 
私たちのために死なれたキリストから離れ、 
もう一度十字架につけるような 
拒絶に道に陥る危険があるという警告。 
 
 
まさかこの自分だけは違うだろうという 
なんの根拠もない憶測と過信を、 
私たちは改めるべきだと思わされます。 
 
 
———————————————————— 
 
[この手紙は、私たちが福音を受け入れ、知ったのちに、私たちの中に起こるイエスに対する反抗について語っている。私たちはふたたびイエスから離れ、私を捕えて下さる御手からまたもやずり落ちるのである。] 
 
———————————————————— 
 
 
 
また、信仰と行いが表裏一体であることを 
この箇所から深く味わうことができました。 
 
ヘブル書は、信仰を強調する書だと 
どこか思い込みがありましたが、 
信仰も行いも、「どちらか」だけでは 
成立することができません。 
 
 
———————————————————— 
 
[あなたがたは怠けないで、かえって信仰と忍耐によって約束を受けつづ人々にならう者となるべきである。この手紙はこのように願っている、「あなたがたがかつて示した熱心を、減らすことなく、あなたがたの中に持ちつづけなさい。ゆるめてはならない!もしあともどりするなら、あなたがたを死んだ者として永久に葬る、あの危険に近づくことになる。ただ単に愛を消さないだけでなく、減らしてはならない。それがあなたがたの安全につながる。その時のみ、あなたがたは完全に希望することができる。 
 
・・ 
 
[私たちが神の召しによる奉仕を熱心に、忠実に続けるならば、この道を歩み続けるごとに、希望が生き生きとしてくる。信仰生活は、私たちに試みだけでなく吟味をももたらすことを、私たちは経験する。その時、私たちはまた信仰を固くもちつづけ、信じ、忍耐して待つことができ、神に信頼する教会から離れない。そのような教会はそれゆえ、信頼し待ち望んでも恥に終わることがない、かえって約束の賜物を受け継ぐ者とされるであろう。] 
 
———————————————————— 
 
 
この手紙の警告は、 
絶対にゆるぎようのない神への希望を 
掴んで離さないためにあります。 
 
神からの完全な救いの約束は、 
私たちを完璧に救うことができますが 
それを受け止めるも拒絶するも、 
実は私たちの手に委ねられています。 
 
神が救うことができる・できない、 
というのが問題ではなく、 
私たちが受け取るかどうかが問題なのです。 
 
 
それは、人間には 
神のご計画により「自由」が与えられ、 
神に従うも、背くも、 
その「自由」にゆだねられているわけです。 
 
この「自由」ゆえに、 
どんな信仰者にも堕落への道が開かれ、 
キリストから離れる危険性があるわけです。 
 
 
私たちに与えられている「自由」を、 
神の召しに誠実に応答する奉仕に用いるか、 
神の御言葉に耳をふさぐために用いるか。 
 
非常に大きな責任が与えられています。 
 
 
言うまでもなく、 
この「自由」を、私たちは 
希望をつかむために用い、 
神を心から喜び、賛美するために用い、 
いつまでもキリストから離れることなく、 
主を賛美し、主のわざに励むために 
用いたいと願うばかりです。


2017年7月9日日曜日

『あわれみの御手』久保田 周太郎 先生

2017年7月9日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:ルカの福音書5章12~16節
説教主題:『あわれみの御手』
招詞:ルカの福音書5章12節
主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。
教会学校
聖書のお話:『中風の人を癒す』
聖書箇所:ルカの福音書5章17~26節
暗唱聖句:ルカの福音書5章20節
彼らの信仰を見て、イエスは
「友よ。あなたの罪は赦されました。」


2017年7月7日金曜日

今日の青年会

今日の青年会。 
 
いつものように 
シュラッターの『新約聖書講解シリーズ』   
ヘブル人への手紙を読んでいます。   
   
今日は前回のつづき、   
5章11節~6章3節でした。   
  
「怠惰な者に対する裁きの言葉」  
  
です。  
  
タイトルそのものが、 
なにやら厳しい内容を連想させますが、 
以下のみことばを指しているのでしょう。 
 
———————————————————— 
 
ヘブル5:12 
あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。 
 
———————————————————— 
 
信仰生活に入って年数を重ねても、 
一向に成長しない、学ぼうとしない、 
前進すること拒否する、 
そのような霊的な姿勢を「怠惰」と 
指しているのだと思いますが、 
誰もが程度の差はあれ 
思い当たる節があるのではないでしょうか。 
 
自分で自分に対して合格点をだして、 
これくらいでいい、と歩みを止める。 
 
神の基準にはどのみち達せないのだから、 
これでいい、という態度。 
 
人間の行いによって 
救いが決まるわけではないし、 
信じるだけでいいのだから、 
何をそこまで学ぶ必要があるのか。 
 
 
・・・と、 
聖書が示す「完成」に対して 
私たちは知らず知らずのうちに 
拒否してしまう傾向があります。 
 
大なり小なり現状維持に努め、 
それが正しいことだと疑わない。 
 
 
今日の箇所は、 
そのような私たちの霊的怠慢に対して 
真っ向から叱責します。 
 
 
———————————————————— 
 
[非難はむしろ、依然として教師を必要とするほど、学ぶことを快く思わない心に向けられている、また自ら前進せず、いかなる静止も後退もあってはならない時に、たえず突き進んで行くべき神の道に歩みを進めようとしない腰の重さに向けられている。] 
 
———————————————————— 
 
 
みことばには基礎的なものと、 
さらに進んだ内容とには違いがあり、 
どのみことばも一様に 
同列に扱えるものではありません。 
 
神との交わりの初歩に影響を与えるものと、 
初歩に続く神との交わりを 
さらに豊かに、活発に 
実りあるものにするものとは 
やはり違うわけです。 
 
 
「乳」と表現される 
初歩的なみことばについてですが、 
乳児が必要とするからといって 
決してあなどられるものではありません。 
 
 
この手紙の著者が非難しているように、 
長く信仰生活に入っていながら 
霊的成長の歩みを止めている者は、 
いつまでも「乳」にとどまるだけで、 
一向に吸収せず自分のものとしていません。 
 
初歩的なみことばが 
完全に自分の内的所有となっていないため、 
どんなに年数がたっても 
いつまでも教師を必要とする始末。 
 
読者をそのように非難するわけです。 
 
 
それでは「成長」とは何か、 
私たちは何によって「成長」するのか。 
また、なぜ「成長」しなければならないか。 
 
 
当然このような問いが浮かび上がります。 
 
 
// 
 
 
御言葉への理解力が乏しい 
ミルクしか消化できない霊的幼子は、 
その理解力の乏しさのために 
行為にその弱さが現れます。 
 
罪ある私たちがキリストによって贖われ、 
神とキリストとを証しする歩みに召され 
奉仕へと招かれていますが、 
その奉仕がまったくできないわけです。 
 
キリストの十字架と復活という、 
どこまでも広く深く大きな神の愛に 
無感覚で、浅い理解にとどまる限り、 
福音を現す力に乏しいままなのです。 
 
 
 
霊的な意味での「成長」とは、 
神の目に正しいか否かを認識することですが 
それは御言葉によって養われる以外に 
達せられません。 
 
 
善悪の区別を学ぶための尺度として 
御言葉が与えられていますが、 
真理に服従する訓練を通してのみ、 
私たちは「成長」することができるのです。 
 
 
いつまでもミルクを必要とし 
固い食物を消化できない人は、 
御言葉による訓練から逃げ続けていて、 
しっかりと吸収しないでいるわけです。 
 
そしてまた私たちは 
成長に不可欠なミルクすら捨ててしまい、 
神の声を聞いたと思い込みながら 
自分勝手な思いに従う傾向すらあります。 
 
 
 
このようにこの手紙では、いつまでも 
「乳」を必要としている者たちを 
非難しているわけですが、 
嘆きに留まっているわけではありません。 
 
むしろ、完成に向けて 
成長していこうではないかと 
激励しています。 
 
キリストの身丈にまで成長するようにと、 
キリストの姿という「完成」に向けて 
前進するように 
神にある善悪を区別できるように 
心を訓練するようにと強く勧めるわけです。 
 
 
 
// 
 
 
ここで再三述べられる「乳」、 
初歩的な教えとは、 
 
悔い改めと信仰、 
洗礼と按手、 
復活と永遠の裁き、のことです。 
 
(「死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばき」 
(ヘブル6:1-2) 
 
 
それらの教えは、 
一度学んだらそれで終わりというものでなく 
むしろいつまでも土台として据えられる、 
骨格のような支えとなるもので、決して 
ないがしろにされるべきもではありません。 
 
 
私たちが吸収すべき御言葉は 
ここでは「乳」と表現されてはいますが、 
内的生活の初歩に人が必要であり、 
私たちの揺るぐことのない土台、 
さらに豊かな神の御言葉の豊かさに 
向かって進むための足がかりであって、 
繰り返し立ち返るべき、高価な食べ物です。 
 
 
このようなしっかりした基礎が 
据えられているからこそ、 
私たちはもっと高いところへと進むよう 
招かれているわけです。 
 
 
キリストの身丈への成長という目標は 
圧倒されるほど高く、想像を超えていますが 
キリストの十字架と復活という 
あまりに大きな犠牲と、神の愛の深さとを 
一生をかけて理解していくこと。 
 
このキリスト者の果てなき道を 
ともに歩んでいこうという励ましこそ、 
この手紙の意図・目的です。 
 
 
 
学びを拒否する霊的怠慢な私たちにこそ 
生きて働く神の御言葉は必要ですから、 
御言葉という真理に服従する訓練を通して 
成長への歩みを続けたいと、 
改めて思わされます。 



2017年7月2日日曜日

『アブラハムの弱さ』久保田 周太郎 先生

2017年7月2日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:創世記12章10~20節 
説教主題:『アブラハムの弱さ』
招詞:テモテへの手紙第2 2章13節
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。
彼にはご自身を否むことができないからである。
教会学校
聖書のお話:『ニコデモの訪問』
聖書箇所:ヨハネの福音書3章1~21節
暗唱聖句:ヨハネの福音書3章3節
まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。


2017年6月29日木曜日

今日の青年会

本日の青年会。  
  
梅雨も真っ盛り。 
かなり湿気が多くなってますね。 
 
先週は空いてしまいましたが、 
学びの時間があると 
やっぱり引き締まりますね。 
 
みことばの力、でしょうか..。 
  
// 
 
 
引き続き  
シュラッターの『新約聖書講解シリーズ』  
ヘブル人への手紙を読んでいます。  
  
今日は前回のつづき、  
4章14節~5章10節でした。  
 
「イエスは祭司となられた」 
 
です。 
 
 
 
「祭司」と聞くと、 
私たちの生活とは完全にかけ離れているので 
曖昧なイメージしか浮かびませんが、 
当時のヘブル人にとっては日常そのもの。 
 
神殿にいて、 
祈りや犠牲を捧げ神に仕える人、 
特にレビ人のことを指していました。 
 
 
今日はその祭司について 
役割や目的を学び、 
イエスが正当に祭司である理由を 
丹念に味わいました。 
 
 
// 
 
 
 
もともと祭司というのは、 
神に反逆した罪人である私たちと、 
神とをとりなす役目を持っています。 
 
「なだめのそなえもの」 
 
という表現が旧約聖書に 
いくつも出てきますが、 
神の怒りをなだめる犠牲を払う 
直接的な役目を担うのが祭司でした。 
 
私たちに罪があり、 
神との断絶があるからこそ 
私たちには祭司が必要なのです。 
 
 
この神と人との断絶した関係において、 
犠牲による和解は絶対になくてはならず、 
とりなしのために祭司は存在しています。 
 
(もちろん当の祭司も罪人なのですが、 
自分の罪のためにも犠牲を払うわけです) 
 
 
 
神と人とをとりなす役目をもつ祭司は、 
当の本人自身が痛みや苦しみを通って、 
とりなす対象の人の罪を十分理解している 
必要があります。 
 
神に対峙し、罪を示され、 
深く悔いる心をもつからこそ 
とりなし手としての役目を担えます。 
 
 
けれども、なぜイエスは 
罪を犯されなかったのに 
「祭司」の職務を担えたのでしょうか。 
 
神の御子であり、 
人間にはまぶしすぎるほどの栄光をまとい、 
圧倒的な高みにおられるイエスが、 
果たして私たちの弱さ、痛み、 
罪穢れの苦しみがわかるのでしょうか。 
 
 
 
イエスは私たちとまったく 
同じようになられましたが 
罪に陥られず、罪に打ち勝たれました。 
 
私たちが味わう試練や誘惑、 
神との関係の中で味わう苦悩。 
 
それらすべてを 
イエスは一身に背負われ、味わわれました。 
 
 
人として歩まれ、弱さをまとわれ、 
悪魔の試練にまで遭われました。 
 
私たちが遭遇する以上の痛みと 
苦悩と誘惑とがあったに違いありません。 
 
それは、イエスの神との対話において、 
特にゲッセマネの祈りに顕著でしょう。 
 
 
けれども、イエスは一切の誘惑に屈せず 
罪を犯されませんでした。 
 
 
私たちの絶対的な理解者でありながら、 
罪を犯されなかった方。 
 
それがイエスです。 
 
 
この点にこそ、 
祭司として最高最大の力が発揮され、 
私たちの罪を拭い去る根拠が得られます。 
 
 
私たちの弱さの 
最大の理解者であるということ。 
 
また、罪穢れのないご自身を犠牲にされた 
という点において 
イエスは私たちのとりなし手、祭司です。 
 
イエスは 
私たちの神への反逆を和解へと導く、 
唯一のささげものとして 
罪穢れないご自身を捧げられました。 
 
罪ある存在でありつつ 
祭司職を担っている祭司とは 
まったく格が違います。 
 
 
また、通常の祭司職が 
自らその役職を自任するのではなく 
神の召命によって任命されるのと同様に、 
イエスもまた神に直接召命されました。 
 
 
———————————————————— 
 
「あなたは、わたしの子。 
 きょう、わたしがあなたを生んだ」 
詩篇2篇7節 
 
 
「あなたは、メルキゼデクの例にならい、 
とこしえに祭司である」 
詩篇110篇4節 
———————————————————— 
 
これによって、 
イエスは至高の大祭司として 
その正当性が確かになったわけです。 
 
 
そして、とりなしのためにイエスは 
犠牲を払うという点においても、 
罪穢れのないご自身という 
これ以上にないものを捧げられました。 
 
また、どんな祈りも願いも、 
「御心ならば」という大原則において 
常に神からの応答を待ち、 
徹底的に神に服従したのもイエスです。 
 
もともと神の御子として、 
そうする必要もないのにイエスは 
徹底的に神に服従され、試練を通られ、 
尊い犠牲をも払われました。 
 
 
このことによって 
イエスは神との一切の隔てを持たず、 
直接に神のみそばに立たれる大祭司として 
私たちと神との仲介者となられました。 
 
 
イエスがいかに犠牲を払い、 
痛みを味わい、私たちの苦悩を知り、 
しかも神との和解に手を差し伸べられたか。 
 
 
この霊的事実が、 
「イエスは祭司となられた」 
という一句に凝縮されています。 
 
 
私たちが味わう以上の苦痛と苦悩を 
肉体を通して、悪魔の誘惑を通して、 
神への徹底的な服従を通して、 
イエスは完全に理解してくださいました。 
 
だからこそ、 
私たちの最良の友であり、理解者であり、 
神と人との仲介者なのです。 
 
 
このイエスによって、 
私たちは大胆に神の御座に近づき、 
神を父と呼べる特権を得られるわけです。 
 
 
キリスト者はこの恵みを喜び、 
イエスの偉業をたたえ、感謝するのです。 
 
 
 
// 
 
 
ヘブル書は抽象度の高い文言が多いので 
文字を目でなぞっているだけの状態ですが、 
メンバーと場を共有し、声に出して 
じっくり味わうと、 
一人で黙読するのとは理解度が違うという 
感触があります。 
 
学びの場を設けて、 
時間をかけて味わっていくのは 
とても恵まれることだなと思います。 



2017年6月25日日曜日

『たねまきのたとえ』横山秀喜 先生

2017年6月25日 第4主日礼拝
礼拝説教:横山 秀喜  先生
聖書箇所:マタイの福音書13章1~9節 
説教主題:『たねまきのたとえ』
招詞:マタイの福音書13章16節
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。
また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
教会学校
聖書のお話:『バベルの塔』
聖書箇所:創世記11章1~9節
暗唱聖句:ヤコブの手紙4章6節
神は、高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みをお授けになる

2017年6月18日日曜日

『深みに漕ぎ出せ』久保田 周太郎 先生

2017年6月11日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:創世記12章4~9節 
説教主題:『深みに漕ぎ出せ』
招詞:ルカの福音書5章4b節
深みに漕ぎ出して、網を降ろして魚をとりなさい。
教会学校
聖書のお話:『約束の虹』
聖書箇所:創世記8章1~9章17節
暗唱聖句:ヘブル人への手紙11章1節
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に言えないものを確信させるものです



2017年6月11日日曜日

『神を呼ぶ者』久保田 周太郎 先生

2017年6月11日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:創世記12章4~9節 
説教主題:『神を呼ぶ者』
招詞:創世記12章8b節
彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。


2017年6月10日土曜日

第2主日礼拝のお知らせ

2017年6月11日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:創世記12章4~9節 
説教主題:『神を呼ぶ者』
招詞:創世記12章8b節
彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。
教会学校
聖書のお話:『ノアと箱舟』
聖書箇所:創世記6~7章
暗唱聖句:創世記6章9節
ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、
全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。


2017年6月9日金曜日

今日の青年会

6月からは木曜夜の青年会。 
 
今日も変わらずにシュラッターの 
『新約聖書講解 ヘブル人への手紙』 
を読みました。 
 
今日は、3章7~4章2節まで。 
 
 
テーマは 
 
「イスラエルの不信仰が 
 キリスト教界に警告を与える」 
 
というもの。 
 
 
かなりギクっとするような、 
非常に手厳しい耳の痛い話しでした。 
 
 
そして教会に通っている人こそ当てはまる、 
自分事として受け止めたくもない、 
霊的な警告に対して無関心な態度。 
 
イスラエルの不信仰の姿を 
他人事として裁いて終わってしまう傾向.. 
 
 
そのようなことが 
指摘されたようにも思います。 
 
 
 
私たちは、エジプトから脱出せられ、 
救われたイスラエルのほとんどは 
荒野で滅びたという信仰の脱落について、 
自分に無関係なものとしてしか 
考えられません。 
 
 
洗礼をうけて教会に行っている。 
 
これ以上になにが必要なの? 
 
 
と、逆に質問すらしてしまうと思います。 
 
 
 
そんな私たちに与えられているみことばを、 
注意深く、忠実に読むならば、 
決して、洗礼を受けて 
教会に行きさえすればそれで 
完全に終了だとは教えていないことが 
わかるはずです。 
 
 
イスラエルの民がエジプトの奴隷から 
解放され、約束の地に連れ出されたように、 
私たちはまったく同じような立場に 
置かれています。 
 
 
救われた事実があり、 
まだ果たされていない約束がある。 
 
 
この点でイスラエルの民と 
まったく同じ状況にあります。 
 
つまり、今も荒野の途上にあるわけです。 
 
(もちろん、救いにあずかり、 
 永遠の命という希望もあるわけですが) 
 
 
 
私たちについて言えば、 
キリストの救いにあずかって、 
約束の完成を待ち望んでいる状態。 
 
地上の歩みをしていて、 
永遠の国の相続人として 
新しい永久の命をいただくという約束。 
 
 
世が終わり、神の国が到来するという約束。 
 
 
これらのものを、私たちは 
今待ちわびて生きています。 
 
 
 
こういう意味で、 
約束の地へと導かれつつあった 
イスラエルの民と同じ状況です。 
 
言い換えれば、まだ 
道の途上にあるということ。 
 
さまざまな脱落の誘惑があり、 
惑わしがあり、滅びてしまう可能性もある。 
 
 
そのような位置付けにあります。 
 
 
 
私たちも決して安全安心ではないよと、 
イスラエルの前例に見出すべきであると 
今日の箇所では教えられています。 
 
 
けれども 
私たちはどうしても安逸を貪る傾向があり、 
そのような耳の痛い話は聞きたくない。 
 
自分の魂の救いは完全に終了しており、 
一切気にかける必要もなく 
喜びにふけり、安心していたい。 
 
 
 
今の自分で何がいけない? 
 
安全・安心を確定させることの何が悪い? 
 
 
それが本音ではないかと自問させられます。 
 
 
 
// 
 
 
今日の箇所では、 
信仰についてかなりはっきりと 
定義がなされていたように思います。 
 
まず、 
逆説的に、不信仰、の説明を引用します。 
 
—————————— 
 
〔不信仰とは、神から離れる逃避、私たちの生から神を追い出す試み、また、「出て行け!私はあなたを求めない」と言って神に抗議することである。〕 
 
〔私たちは神を求めているのか、それから逃れているのか、そのことは私たちが善を愛するのか、悪を愛するのか、私たちは善から離れたいのか、悪から離れたいのか..〕 
 
—————————— 
 
 
 
また、信仰、についても 
非常に明瞭な解説がなされています。 
 
 
—————————— 
 
〔私たちの救済は、なお未来にある約束である。このような状況にあっては、信ずることこそ肝要なのである。受けた賜物に基づいて、きたるべきものを期待する、これが信仰の行為にほかならない。〕 
 
〔私たちはイエスの恵みと賜物を知っているゆえに、現在の生は、暗やみでも不確実でも、不安でも嘆きでもなく、かえってむしろ信仰にほかならない。〕 
 
〔しかしながら、信仰が求められているゆえに、私たちには不信仰の危険が近づいているのである。〕 
 
—————————— 
 
 
信仰を持ちなさい、という命令は 
そういう状況に私たちがあるからこそ 
意味のある言葉です。 
 
信仰を持たなくても悪影響がないならば、 
あえてこのような警告はないはずです。 
 
 
私たちがイスラエルの民と同じように、 
今も約束の地への途上にあるという認識が、 
警告にリアリティを持たせているわけです。 
 
 
 
この著者のような霊的認識を、 
私たちは持っているだろうか? 
 
イスラエルの民と同じような 
信仰が要求される荒野の途上だと 
常々理解しているか? 
 
 
それが今日の主要テーマでした。 
 
 
 
// 
 
 
 
警告と合わせて語られる「恐れ」について。 
 
 
結局のところ、 
ソロモンも「神を恐れよ」と、 
伝道者の書を締めくくっているように 
「恐れ」を持ち続けているかどうかに 
話がまとまっていきます。 
 
 
 
ここで注意したいのが 
「恐れる」という言葉が誤解されやすい点。 
 
 
「恐れなさい」と言われたから、 
あの手この手で 
心に恐怖を喚起しようとする。 
 
これは技巧的で
聖書がいう「恐れ」とは違います。 
  
もちろん神の求める態度ではないでしょう。 
 
 
また、指摘されることを嫌がる、 
聖書の耳の痛い話を聞きたくない、 
神が私たちをどのように裁くかなど、 
望まない宣告を拒否する態度、 
 
という意味合いの「恐れ」でもありません。 
 
 
神の言葉としての聖書から遠ざかったり、 
教会に属すことを嫌がったり、 
自分の真の姿を指摘されるのを避けたり、 
そのような意味の「恐れ」ではありません。 
 
 
この手紙で言われる「恐れ」というのは、 
不信仰に陥ってしまうことへの恐れ、 
荒野で滅びたイスラエルのように 
信仰的に脱落してしまうことへの恐れ、 
です。 
 
 
イスラエルが、モーセを通して 
神の言葉を信仰をもって受け取ったように、 
私たちは今、手元にある聖書を通して 
神の言葉を受け取っています。 
 
 
単なる人間の書物とみなすか、 
神の言葉とみなすか、 
聖書の捉え方で信仰が露わにされます。 
 
 
不信仰に陥ることを恐れるならば、 
この恐れは神の前に正しい恐れとして、 
神の言葉を求める原動力となります。 
 
 
 
私たちも今なお荒野の途上にあり、 
イスラエルのように脱落するかもしれない。 
 
そのような不信仰への恐れをもち、 
神の御言葉を恋い慕って歩みたいものです。 
 
 
 
また、単に自分のことだけでなく、 
教会に属するものたち同士が 
支え合うことが勧められています。 
 
 
祈り合うこと、 
御言葉の祝福を分かち合うこと。 
 
そのような日々の営みこそが 
キリストの教会の集いなのだろうと 
思わされました。 
 
 
 
御言葉をどのように捉えるか、 
本当の意味で神を恐れているか。 
 
ここにおいて信仰が試されると 
学ぶことができました。 
 
 
 
キリストの体に属するものとして、 
これからも祈り励まし合えたらと思います。

2017年6月4日日曜日

『聖霊降臨』久保田 周太郎 先生

2017年6月4日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:使徒の働き2章1~13節 
説教主題:『聖霊降臨』
招詞:使徒の働き2章4節
すると、みなが聖霊に満たされ、
御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。


2017年6月3日土曜日

第1主日礼拝のお知らせ

2017年6月4日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:使徒の働き2章1~13節 
説教主題:『聖霊降臨』
招詞:使徒の働き2章4節
すると、みなが聖霊に満たされ、
御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
教会学校
聖書のお話:『レメクとセツ』
聖書箇所:創世記4章17~5章32節
暗唱聖句:創世記4章26節
人々は主の御名によって祈ることを始めた。

2017年6月2日金曜日

今日の青年会

今日の青年会。 
 
今日から6月、 
メンバーの都合もあり 
木曜開催になりました。 
 
青年会のメンバー一人一人の 
霊的な成長のために 
続けてお祈り頂ければ幸いです。 
 
 
// 
 
 
さて、いつものように 
アドルフ・シュラッターの 
『新約聖書講解シリーズ』の 
ヘブル人への手紙講解。 
 
今日は3章1~6節でした。 
 
テーマは、 
 
「イエスはモーセよりも偉大である」 
 
です。 
 
 
 
ながらく教会につらなり、 
聖書を読み続けていると 
どうしても表面的な理解にとどまって 
しまうのがクリスチャンの 
霊的な誘惑だと思いますが、 
 
 
ヘブル人への手紙のように 
神学的な内容で、抽象度の高い話になると 
理解の怠慢というべきものでしょうか、 
顕著にあらわれてしまうなと感じます。 
 
 
字面通り、 
 
 
イエスはモーセより偉大だ、 
 
と読んだままそれっきりで、 
その内訳に思いを馳せない心が 
やはり潜んでいたことに気づかされますが、 
 
 
なぜ、モーセよりも偉大なのか。 
 
 
また、それ以前に 
モーセが偉大であることは自明なのか? 
 
 
 
といったことまで 
私たちは考えを深める必要を感じます。 
 
 
 
 
この手紙の読者は、ヘブル人、 
ユダヤ人キリスト者です。 
 
 
モーセを神の使者として、 
偉大な指導者として 
代々尊敬していた民族でありながら、 
キリストを受け入れた者。 
 
 
そのため 
文化的・社会的に攻撃対象となるような 
圧倒的な少数派となった人たち。 
 
そのキリスト者たちを励ます手紙が、 
このヘブル人への手紙ですが、 
文化的土台はやはり旧約聖書にあります。 
 
 
モーセはユダヤ人にとって 
圧倒的な影響力をもつ、 
例外なく偉大だと認める指導者。 
 
 
彼らの心の支えといってもいいでしょう。 
 
 
そのモーセよりも、イエスは偉大である。 
 
 
この宣言は、どれほど読者をはっとさせ、 
励ましたことでしょう。 
 
 
自分たちの信じているキリストが、 
最高に素晴らしく、崇めるべき 
神の御子であるということを 
改めて宣言することは 
どれほど勇気が得られたことでしょう。 
 
 
 
// 
 
これまでの箇所で 
御使とイエスとの比較があったように、 
3章ではモーセとの比較を通して、 
いかにイエスが高いくらいに 
座しておらられるか、 
順を追って話が進められています。 
 
 
ここでは、 
 
 
モーセを信奉していた者たちに対して、 
イエスをのみ拝せよと、 
どのような根拠で言われているのか。 
 
 
イエスに従うとは、 
モーセに従うことと矛盾しないと、 
どのような前提で語られているのか。 
 
 
この辺りが、最重要項目だと思います。 
 
 
つまり、同じ神からの信任を受けた、 
モーセとイエス。 
 
この2人の指導者は、 
どちらも完全に従うべき 
神の信任を受けた者。 
 
 
ただ、イエスとモーセには 
圧倒的な違いがある、 
というのが今日の主題。 
 
 
それは、 
モーセが神の家の奉仕者であるが、 
イエスは神の御子であるという点です。 
 
 
両者とも神の忠実なしもべではあるものの、 
神の家の奉仕者なのか、それとも 
神の家の建設者なのか、 
それほどの違いがあるというわけです。 
 
 
また、モーセは 
神の御子の栄光の目撃者、証言者ですが、 
イエスは、神の栄光そのもの。 
 
証言される者と、証言する者。 
 
 
神の家の奉仕者か、 
神の家の所有者であるか。 
 
この違いは明白です。 
 
 
// 
 
 
モーセが仕えた、神の家。 
 
それは、直接的にはアブラハムの子孫、 
イスラエルの民ですが、 
キリストによって贖われた 
クリスチャンたちのことを指します。 
 
 
「教会は、真のイスラエルであり、アブラハムの子孫であり、聖なる民、神の相続人、神の家である。なぜそうであるのか。私たちはキリストの御業だからである。」 
 
 
というシュラッターの言葉は、 
非常に印象的です。 
 
 
キリストによって私たちは贖われ、 
神のものとされました。 
 
キリストのゆえに、私たちは神の家となり、 
神の所有となり、相続人とされました。 
 
 
この、この上もない祝福を受け取る 
私たちには、大きな希望があります。 
 
 
一方で、それを固く握りしめるようにと、 
強く戒めるようなニュアンスが込められているのはどういうわけでしょうか。 
 
 
ある種の警告的な含みをもたせて、 
 
 
「もし、私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです」(ヘブル3:3) 
 
 
と書かれているのは 
どういうことなのでしょうか。 
 
 
 
ここに、私たちの戦いが暗示されている、 
とシュラッターは指摘します。 
 
希望はするすると去っていかないように 
固く握りしめるべきであり、 
自分の魂を人任せにせず 
能動的であるようにというのは、 
明らかに、戦いを彷彿とさせます。 
 
 
確かにキリストにあって希望がありますが、 
その希望を掴み続けるのは 
私たちの責任の範疇にあるのだと 
思わされます。 
 
 
パウロが信仰の失格者にならないようにと 
ある箇所で戒めていたのを思い起こしますが 
それと似たような意味合いで、 
神の家に属する者とされた私たちは、 
そこから抜け落ちることがないように 
絶えず喜びと希望とを持ち続けたい。 
 
そのように祈らずにはいられません。 
 
 
 
絶えずイエスから目を離さずに、 
魂のゆくえが神の家にあるという希望を 
固く握りしめてそれぞれの働きを 
全うしていきたいと祈り願います。 
 
 
 
 
モーセとイエスとの関係は、 
非常に興味深い、 
神学的にも重要な主題だと思います。 
 
 
ますます理解が深まるように、 
人に語れるくらいになるように 
共に学び進みましょう。