説教:尾崎摂理兄
説教主題:『なおも守りの御手にとどまろう』
聖書箇所:ヘブル人への手紙10章26~39節
中心聖句:
しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
ちょうどそのとき彼女も近寄って来て、神に感謝をささげ、エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語った。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。
鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。
こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、
昔から聞いたことがありません。
あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」
主よ あなたが造られたすべての国々は
あなたの御前に来て 伏し拝み あなたの御名をあがめます。
わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ。
神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ。」
よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
木はそれぞれ、その実によって分かります・・・良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。
しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。
どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。
一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて
他方を軽んじることになります。
あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。
彼女にはマリアという姉妹がいたが、
主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、
それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」
ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。
固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。
自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めなさい。
「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。
「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、
あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。
あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。
神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。
弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
招かれたなら、末席に行って座りなさい。
狭き門から入るように努めなさい。
神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。
神の国は何に似ているでしょうか。