熊本北聖書キリスト教会

熊本北聖書キリスト教会

2017年5月28日日曜日

『ペンテコステ前夜』久保田 周太郎 先生

2017年5月21日 第3主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:使徒の働き1章12~26節 
説教主題:『ペンテコステ前夜』
招詞:使徒の働き1章14節b
みな心を合わせ、祈りに専念していた。


2017年5月27日土曜日

第4主日礼拝のお知らせ

2017年5月21日 第3主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:使徒の働き1章12~26節 
説教主題:『ペンテコステ前夜』
招詞:使徒の働き1章14節b
みな心を合わせ、祈りに専念していた。
教会学校
聖書のお話:『カインとアベル』
聖書箇所:創世記4章1~16
暗唱聖句:創世記4章7節
あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。
ただし、あなたが正しく行っていないのなら、
罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。
だが、あなたは、それを治めるべきである。

2017年5月23日火曜日

今日の青年会

今日は青年会がありました。 
 
いつも祈りに覚えてくださり 
ありがとうございます。 
 
それぞれが日常の忙しさから時間を割いて 
ここに集められること、 
本当にありがたいことだな、と思います。 
 
 
自分の場を離れて、 
自分の時間をささげること。 
 
多少の犠牲があるからこそ、 
このことそのものが貴重にな時間になる 
と実感しています。 
 
 
// 
 
 
さて、ここのところ読み進めている、  
アドルフ・シュラッターの  
『新約聖書講解シリーズ』、  
ヘブル人への手紙を  
今日も読み、分かち合いました。  
  
2章13~18節です。  
 
「イエスの低さにも栄光がある」 
 
という主題の2章は、 
私たちの罪を贖うために受肉された 
イエスについて記述されています。 
 
御使のためではなく、 
私たち人間のために犠牲を払われた、 
という点が強調されていました。 
 
 
主イエスと私たちが 
「兄弟である」という理解に強調点がおかれ 
だからこそ多大な犠牲をいとわなかった、 
という流れで話が進みます。 
 
どうしてそこまでして、 
そのままで聖いお方が 
人間の姿をとってこられたのか。 
 
 
ここには文面以上の驚きが 
込められいてると思います。 
 
というのも、 
肉と血を受けられたという表現には、 
肉体をもつことの負の側面が 
強調されているとみられるから。 
 
肉体をもつというのは、 
老いや死を意味しますし、 
汚れの象徴でもあったのだと 
容易に想像できます。 
 
神との対比において聖さの対局にあるのが 
肉体だとも言えるでしょう。 
 
 
死と汚れと分かちがたく結びついた肉体。 
 
その肉体を、神の御子がまとわれた。 
 
 
律法を信じ、神をおそれる者からすれば 
限りなく矛盾しているわけです。 
 
 
だから、パリサイ人たちが 
イエスを拒絶したのも 
理解できなくありません。 
 
つくづく、信仰というのは 
人間のわざではないと思わされます。 
 
 
 
私たちを「兄弟」と呼ばれ、 
心から愛されるがゆえに、 
私たちを同じになられたイエス。 
 
肉体をもたれたがゆえに、 
罪は一切ありませんでしたが、 
死に従われることまでされ、 
私たちが通るべき以上の道を通られました。 
 
 
アダムによって人類に入り込んだ罪と死。 
 
その破壊的な力には 
人類はどうにも抗いようがありません。 
 
しかも、神に対して 
いのちを失っていること、 
罪的な存在になっていることすら 
自覚がありません。 
 
 
いのちがないのに、 
それに気づくことさえできない状態。 
 
それが私たちの罪的な姿、 
死に定められた姿です。 
 
 
このような私たちには、 
死からの解放がどうしても必要なのですが 
自分たちではどうすることもできません。 
 
しかもその必要性にすら気づけないのです。 
 
 
神に対して支払うべき代価を 
私たちは持ち合わせていません。 
 
支払うまでは、 
いつまでもいのちを失った状態にありますが 
どこからも、その代価が得られないのです。 
 
 
だから、キリストが 
私たちの代わりに支払われた。 
 
 
これが聖書の教える「救い」です。 
 
 
キリスト以外に、 
私たちの罪を埋め合わせる 
神に支払うべき代価はありません。 
 
 
だから、キリストは代えがたく、 
何よりも尊いことを私たちにされた 
といえるわけです。 
 
死に繋がれていた私たちに、 
本当のいのちを与えてくださったというのは 
ご自身が、人類の神への反逆罪の 
支払いの代価を払われたから、です。 
 
 
こうして、いずれ朽ちゆく私たちの 
地上の歩みも、キリストによって 
意味あるものに変えられました。 
 
死んだら終わりという虚無的な世界観から、 
死んでも生きるという希望の人生に。 
 
 
どれほどまでに 
キリストが大きなことをされたか、 
その理解は、 
 
私たちが神に対して、 
どれほど罪的な存在であるかの理解と同値。 
 
 
知ろうと知るまいと、 
人は例外なく神の呼びかけに応答しません。 
 
それが、罪的な性質であり、 
いのちを失った姿です。 
 
 
この姿に自覚し、 
救い主を渇望し、受け入れること。 
 
これは、聖霊の働き以外にありえません。 
 
 
主に生かされたことの喜びをもって 
歩むことは、本当に、 
聖霊の働きでしかないと思わされます。 
 
 
キリストがなさった偉業の理解も、 
また聖霊の働きでしょう。 
 
 
 
私たちを罪から解放するために、 
イエスは受肉され、死にまで従われた。 
 
イエスの「低さ」にも栄光が満ちている。 
 
 
ことことを2章から学びました。 
 
 
 
テンプレートのように、イエス様が 
十字架に代わりにかかってくださった、 
と信仰告白を形式化してしまうのでなく、 
 
もっと切実な自分の体験として、 
 
私の罪を解放してくださった方がおられ、 
神との断絶をとりなしてくださった方が 
多大な犠牲を払われたということ、 
その実感を得られるよう、 
霊の目が開かれますように。 
 
そのように祈り求めます。 


2017年5月21日日曜日

『キリストの証人となるために』久保田 周太郎 先生

2017年5月21日 第3主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:使徒の働き1章1~11節 
説教主題:『キリストの証人となるために』
招詞:使徒の働き1章8節a
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。


2017年5月20日土曜日

第3主日礼拝

2017年5月21日 第3主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:使徒の働き1章1~11節 
説教主題:『キリストの証人となるために』
招詞:使徒の働き1章8節a
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。
教会学校
聖書のお話:『最初の罪』
聖書箇所:創世記2章16~17、3章
暗唱聖句:ローマ人への手紙3章23~24節
すべての人は、罪を犯したので、
神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、
キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです

2017年5月17日水曜日

今日の青年会

今日も青年会。 
 
火曜の夜は聖書研究、、、 
 
というのが最近の
ライフスタイルになっております。 
 
(来週を最後に、 
 毎週木曜に変更する予定ですが。) 
 
 
いつも、この青年会のために 
お祈りくださり、
ありがとうございます。 
 
祈りの輪が日々強固に、 
広がっていけばと願っております。 
 
 
// 
 
 
さて、ここのところ読み進めている、 
アドルフ・シュラッターの 
『新約聖書講解シリーズ』、 
ヘブル人への手紙を 
今日も読み、分かち合いました。 
 
2章10~13節です。 
 
 
この短い句に、 
どれほどの衝撃が込められいるのか。 
 
味わうほどに、 
神の愛の広さ深さが感じられます。
 
 
特に 
——————————————— 
11~12節 
 
聖とする方も、聖とされる者たちも、 
すべて元は一つです。それで、主は 
彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、 
こう言われます。 
 
「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに 
告げよう。教会の中で、わたしは 
あなたを賛美しよう。」 
 
——————————————— 
 
どれほどの隔たりが、 
神と私たちとの間にあるでしょうか。 
 
聖書を読んだことのある人であれば、 
人類に入り込んだ「罪」というのものが 
いかに深い溝で、どうにも埋めがたく、 
また、人類がどうしようもないほど 
堕落した存在になってしまったのかが 
感じられ、暗い思いになります。 
 
 
聖書を読む。 
 
 
それだけで、 
ある人々にとっては後ろめたく 
億劫で、自らの負の部分を指摘され、 
それこそやかましく説教されるような 
気分になるものです。 
 
 
裏を返せば、 
自分自身が自分の醜さを知っている。 
 
どこかで、自分の罪的な性質を 
痛感している。 
 
 
神なしに生きれば生きるほど、 
神は遠くに感じられ、 
そのまま神の清さと対称的に 
自分は汚れていると感じてしまう.. 
 
 
だからこそ普通に生きていれば、 
多くの人は「自分は聖い」 
などとは恐れ多くて言えないでしょう。 
 
よほど傲慢でもない限り、 
大体人は自分を低く見積もるものです。 
 
 
このような自己像があるものですから、 
余計に、11節は衝撃的です。 
 

「すべて元は一つです。」 

 
というのは、 
 
神と私たちが一つ、ということ。 
 
 
・・受け止められますか? 
 
 
神と私たちが、 
元は一つだということを。 
 
 
ここでは、 
神が私たちを創造されたという 
大前提で語っているわけです。 
 
ヘブル人たちは当然 
神のことばを宝とする民族ですから、 
代々神が天地万物を創造し、 
例外なく自分たちも被造物だと 
深いレベルで認識していました。 
 
それこそ常識だったのだと思います。 
 
 
現代日本は、どこか唯物的で、 
進化論的な科学が蔓延していますから 
人間が被造物だとは 
到底受け入れられません。 
 
 
ましてや、 
創造主・被造物という関係性において 
元は一つであるという主張を、すんなり受け入れられるわけがありません。 

ですが、やはり
神との関係なくしてキリストも
何も理解できないのが私たちの現実です。

 
キリストが、 
受肉され、呪いの象徴である 
十字架すら拒まれずに 
人類救済の神の計画に従われたこと。 
 
多大な犠牲を払われても、 
神のご計画を遂行されたこと。 
 
このことの裏側には、 
人類への深い深い愛がなければ 
一切説明がつきません。 
 
自分たちの罪すらも自覚できない、
盲目な私たちに向けて、
一方的に神が愛を示された。

このことは本当に、
言葉では説明できないことです。

 
神と私たちとの、 
聖さと汚れという永遠の溝以上に、 
キリストは、私たちとキリストが 
創造主・被造物という関係において 
元は一つだという共通性に 
価値を見出されたこと。 
 
それゆえに「兄弟」と呼ばれたこと。 
 
ここに、とてつもなく
深い深い愛が示されています。 
 

 
反逆者に、汚れ・呪われた者に、 
「兄弟」と呼ぶことができますか。 
 
そのような者に親からの贈り物を 
相続しようなどと思えますか。 
 
 
それが、神のご計画なのです。

そして、神の偉大さの表れです。
 
 
創造の初めに、人類を造られたときに立てておられた未完の計画を、 
キリストによる救済によって 
完成へと導こうとされた。 
 
すでに完成者として座しておられる 
キリストが長子として、 
私たちは兄弟として、 
見上げることができます。 
 
 
キリスト者はどれほど祝福され、 
神の愛に包まれているのか。 
 
 
創造主が確かにおられ、 
私たち一人一人も 
神に創造され、その名を呼ばれるとは 
どれほど祝福に満ちたことなのか。 
 
 
創造主がいるというだけで、 
私たちのいのちには意味が生まれます。 
 
無目的に、無機質に 
生成変化して「進化」した物質の延長。 
 
そのような低次の人間理解だから、 
生きる意味や喜びがなくなるわけです。 
 
 
造られた目的があると知ることは、 
本当の意味で生きていることです。 
 
真の意味で人間らしく生きることは、 
神との関係なくしてありえません。 
 
 
その神が、 
私たちを愛しておられること。 
 
 
キリストが私たちの元にこられた。 
ただそれだけで 
十分すぎるほど愛が示されています。 
 
 
 
ますますキリストに似た者として、 
変えられていく喜びを 
日々味わえたらと祈り願います。 


2017年5月14日日曜日

『人はパンだけで生きるのではない』久保田 周太郎 先生

2017年5月14日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:ルカの福音書4章1~12節 
説教主題:『人はパンだけで生きるのではない』
招詞:マタイの福音書4章4節
人はパンだけで生きるのでなく、
神の口から出る一つ一つのことばによる。


2017年5月13日土曜日

第2主日礼拝のお知らせ

2017年5月14日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:ルカの福音書4章1~12節 
説教主題:『人はパンだけで生きるのではない』
招詞:マタイの福音書4章4節
人はパンだけで生きるのでなく、
神の口から出る一つ一つのことばによる。
教会学校
聖書のお話:『アダムとエバ』
聖書箇所:創世記1章26~27、2章4~25節
暗唱聖句:創世記1章27節
神は人をご自身のかたちとして創造された。
神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。


2017年5月9日火曜日

今日の青年会

今日は火曜の青年会。 

いつもとかわりなく開催できました。
お祈りありがとうございます。 

アドルフ・シュラッターの
『新約聖書講解シリーズ』の
ヘブル人への手紙を読んでいます。


先週は、一つ飛ばして
2章に入ってしまっていたので、
1章の残りの部分に戻りました。

読んだのは、
1章の10~14節です。


キリストはいかに偉大であるか。

というのが主題のこの章は、
まとめればまさに文字通り主題のまま。
キリストの偉大さが延々と語られます。


ここでは旧約聖書を引用して、
しかも御使いと比較して
キリストの偉大さ、
その栄光が描かれます。


ヘブル人=ユダヤ人キリスト者

が手紙の読者だったことを踏まえると、
彼らの文化背景、常識などが
うっすらと浮かび上がってきます。

今日読んでいて特に気になったのは、
現代日本に生きる私達との一番の違い、
「御使い」に対する感覚です。


私たちは「御使い」という存在を
空想上のものとしてしか
捉えていない文化に生きています。

小説や、映画、ファンタジーの中の、
ちょっと崇高な、キャラクターの一部。

そのくらいの感覚でしか「御使い」を
捉えていません。

いや、捉えているとすら
言えないレベルでしょう。

だから、
この手紙の著者がいくら繰り返し
キリストは御使いよりも
偉大だと述べても、
いまいちピンとこないわけです。


一方で、この手紙を受け取った
2000年前のユダヤ人の
御使いに対する感覚は
どうだったでしょうか。

私たちとはかなり違います。

たとえば使徒12章15節の、
牢獄から御使により助け出された
ペテロが門で戸を叩いたシーン。

——————————

彼らは、「あなたは気が狂っているのだ」と言ったが、彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。

——————————

という箇所です。

この言葉からは日常的感覚の延長に、
「御使い」がいることがうかがえます。

冗談だったのかなんなのか
わかりません。

それでも、
獄中にいるはずのペテロが
門の外にいるわけがない、
だったらそれは彼の御使いだ、
とやや乱暴にいってしまう感覚。

それは、文化的に、
御使いをどこか身近に捉える感覚が
あったからだと言えないでしょうか。

少なくとも、
現代日本人のような
ゲームや映画などのファンタジーの
天使とはまったく違います。


ヘブル人の手紙に出てくる御使いは、
神の言葉を直接に委託された
神に属する人間よりはるか上位の存在、
神に直接奉仕する存在でした。

当然、神に直接見える存在ですので、
人間とは比べるもなく聖い存在として
恐れられていました。


そのような認識があったからこそ、
この手紙で語られる
キリストは、「あの」御使いよりも
もっと偉大で、栄光に輝いている
という論法が通用したのでしょう。


その御使いですら、
「彼を拝め」と神に命じられる。

その「彼」というのがキリストであるとは、
この手紙の受け手にとっては
衝撃だったに違いありません。


また、
旧約聖書を丹念に正しく
読み取ることができるなら、
神の言葉=キリストと理解できるはずだ。

というこの手紙の著者の理解も
当時非常に際立っていたと思います。


ユダヤ文化圏で
代々尊重し恐れられてきた
神の言葉は、イエスによって実現した。

このような理解がなかったからこそ、
イエスは直接的には
パリサイ人らによって
十字架につけられたわけですし、
ユダヤの多数派は相変わらず
キリスト者を迫害していたわけです。


あなたがたがこれまで信じ、
守ってきた神の言葉は、
イエスのそのものであり、
イエスによって完成した。

という著者の指摘は、
どれだけ衝撃があったことでしょうか。


そして、キリスト者にとって
どれだけ大きな励みになったことか。



ヘブル人への手紙の著者は、
まさに、キリストの偉大さを
旧約聖書の文脈に沿って描き出し、
大きな励ましを与えようとしました。


キリストが
神の言葉そのものであること。


このメッセージの素晴らしさは、
神の言葉を恐れている人にこそ
通用しましたが、

神を恐れられるかどうかは
やはり聖霊の働き以外の何物でもない
と思います。


私たちの能力では、
神の計画の素晴らしさをほとんど
理解できず、キリストの偉大さも
神の言葉の重みも
わかりようがありません。



キリストに結び合わされ、
新しいいのちに生かされていること。

この神のみわざの偉大さ、
聖霊に満たされることの祝福を、
日々味わい、
感謝を深めていければと願います。



2017年5月7日日曜日

『あなたの名は祝福となる』久保田 周太郎 先生

2017年5月7日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:創世記11章27節~12章3節
説教主題:『あなたの名は祝福となる』
招詞:創世記12章2節b
あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。
あなたの名は祝福となる。

2017年5月6日土曜日

第1主日礼拝のお知らせ

2017年5月7日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:創世記11章27節~12章3節
説教主題:『あなたの名は祝福となる』
招詞:創世記12章2節b
あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。
あなたの名は祝福となる。
教会学校
聖書のお話:『天地の創造』
聖書箇所:創世記1章1~2章3節
暗唱聖句:創世記1章1節
初めに、神が天と地を創造した

2017年5月3日水曜日

今日の青年会

こんばんは。

今日は青年会がありました。
(先週はお休みをいただきました)

いつも祈りに支えられ、
主にある深い交わりが持てたことを
心より感謝いたします。

直接は顔と顔とを合わせていなくとも、
祈りにおいて一致できること。

本当に大きな恵みだと思います。


さて、今日は
引き続きシュラッターの
「新約聖書講解シリーズ」ヘブル人への手紙
の続きを読み進め、2章に入りました。

(読み始めて気づきましたが、
 実は1章の最後を飛ばしてしまいました!)


この手紙の受取手のヘブル人とは
ユダヤ人キリスト者のことで、
当時、社会的にも、宗教的にも
非常に弱い立場に置かれた人たちです。

圧倒的に劣勢で、少数派。

彼らはキリスト者であることが
一般的にはなんのメリットもないのに
あえてキリストを信じ受け止めた人たちです。

そういった人々に向けて
励ましを与えるために書かれたのが、
ヘブル人への手紙の趣旨でした。



あなたがたは
何よりも変えがたい価値のある
キリストに連なっているのだ。

全宇宙以上に素晴らしい
キリストと一つになっているのだ。

そのキリストの栄光を、偉大さを、
改めて味わい直そうではないか。


・・・というようなメッセージでしょうか。


今この日本に生きる私たちにとっても、
置き換えやすいテーマだと思います。

圧倒的に社会においては
少数派であるクリスチャン。

キリストを信じて一体何になるのか?

そのような責めに内からも外からも
さらされている私たち。

キリストを信じる意味は一体何なのか?

その問いに、
ダイレクトに答えているのが
ヘブル人への手紙なんだと言えるでしょう。



さて、1章ではイエスの偉大さが
重ね重ね語られていました。

あの、万物を創造された神が
御言葉を託した御使いでさえも、
「彼に従え」と神に言わしめた、キリスト。

2章でも
キリスト礼賛の文脈を引き継いでいます。


今日読んだところは、
「イエスの低さの中にも栄光がある」
でした。


ここでいう「低さ」というのは、
当時人々の間で暗い謎であった、
十字架で死なれた神の御子という、
およそ矛盾する真逆の印象についてです。

何よりも聖く、尊厳があり、
栄光に輝く神の御子であるというのに、
どうして醜い肉体をまとい、
呪いの象徴である十字架にかかったのか。

人々から疎まれ、汚らわしいと蔑まれ、
磔にされた醜い姿が、
どうして神の御子でありえたのか。


こういった疑問があったのだろうと思います。


ですが、ここでもこの手紙の著者は、
「低さ」ですらも最高に素晴らしいと
キリストを讃えるわけです。

私たちの通り一辺倒のちっぽけな思い込み。
そんなのとは次元が全く違うと看破するわけです



シュラッターの解説を読んだ私たちは、
ちょっと卑近な例に置き換えて
理解を深めようと試みました。

最大の功労者は、
最大の醜さをすら厭わない。

この意味において、低さと高さは
同時に存在する。 と。


キリストは、
人類の罪穢れを一身に背負われました。
その象徴が十字架の死です。

十字架の死こそ、
いわば私たちの過去現在未来すべての罪を
濃縮し、目に見えるようにしたもの。

その罪が、あのひと時において
一度に処分されるべく表にでてきました。


その罪を拭いさる姿は、
悲惨で、醜く、呪われる姿だった
に違いありません。

その姿は、実のところ
キリストそのものの本質ではなく、
私たちの罪が投影したものです。


罪を処分する瞬間が、
どれほど「低い」状態であったのか。

いや、私たちの罪的な性質が、
どれほど深く底知れないのか。

そんなことを思わされます。


そして、キリストが私たちの罪を贖われた。

これがどれほど偉大で、
天地万物が賞賛するに値するほどなのか。


神の創造の目的にかなうように
回復の道を整えたことが、
どれほど喜ばしいことか。

天の天の御使いたちもが
声をあげて賞賛することの「高さ」。


この、罪を背負うイメージの痛ましさと、
罪を贖い完了させた賞賛の大きさ。

まさに十字架の死と復活が
「低さ」と「高さ」
両方を同時に表現しているのだと思います。



私たちは、このキリストに結び合わされ、
生かされています。

肉体は朽ちていっても、
霊的には永遠のいのちを持っています。


きたるべき世界の主であり、
すべての相続者であるキリスト。

私たちはこのキリストに似た姿となるべく
招かれており、今、福音を握りしめています。


断片的に語られた旧約時代の神の言葉
ではなく、神の言葉の完成者であるイエス。

そのイエスと出会い、生かされ、
共に来るべき世界の相続人となるという約束。

キリストにおいて神との関係を回復し、
地を良く管理すべく創造された人間の目的を
果たしていくこと。


すべてはキリストと結ばれてこそ進められる
神のいつくしみ深い計画だといことを、
改めて味わっています。



詩篇8篇に出てくる「人」というのを、
ヘブル人への手紙の著者が「イエス」
という解釈をしているという指摘が、
今日は特に印象深かったので、
一度味わってみてください。


世界は、まだ完成への途上にあるということ。
けれども、ただ一人イエスのみが
既に完成されており、
私たちは彼に連なるものとして招かれ、
いずれキリストと同じく
世界の相続人になっていくという、
新しい約束の祝福の大きさに気づかされるでしょう。