熊本北聖書キリスト教会

熊本北聖書キリスト教会

2017年4月30日日曜日

『我らの主、イエス・キリストを信ず』久保田 周太郎 先生

2017年4月30日 第5主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:ヨハネの福音書14章1~6節
説教主題:『我らの主、イエス・キリストを信ず』
招詞:ヨハネの福音書14章6節a
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。



2017年4月29日土曜日

第5主日礼拝のお知らせ

2017年4月30日 第5主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:ヨハネの福音書14章1~6節
説教主題:『我らの主、イエス・キリストを信ず』
招詞:ヨハネの福音書14章6節a
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
教会学校
聖書のお話:『天に昇られたイエス』
聖書箇所:使徒の働き1章3~14節
暗唱聖句:使徒の働き1章8節
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、
および地の果てにまで、わたしの証人となります。

2017年4月23日日曜日

『天地の創り主、全能の神を信ず』久保田 周太郎 先生

2017年4月23日 第4主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:エレミヤ書32章 17~18節
説教主題:『天地の創り主、全能の神を信ず』
招詞:創世記 1章1節
始めに、神が天と地を創造した。



2017年4月22日土曜日

第4主日礼拝のお知らせ

2017年4月23日 第4主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:エレミヤ書32章 17~18節
説教主題:『天地の創り主、全能の神を信 ず』
招詞:創世記 1章1節
始めに、神が天と地を創造した。
教会学校
聖書のお話:『エマオに向かう道で』
聖書箇所:ルカの福音書24章13~35節
暗唱聖句:ルカの福音書24章31節
彼らの目が開かれ、イエスだとわかった

2017年4月18日火曜日

今日の青年会

今日は火曜の青年会。 

いつもとかわりなく開催できました。
お祈りありがとうございます。 

アドルフ・シュラッターの
『新約聖書講解シリーズ』の
ヘブル人への手紙を読んでいます。

今日は、1章5-9節でした。

この手紙の主題を常に振り返りながら、
キリストの偉大さ、栄光を
深々と味わうことができました。

「キリストはなんて素晴らしいんだ」

・・・と、キリスト賛美を言葉にしてしまうと
途端に陳腐になってしまうんですが、
心にはそれ以上でもなくそれ以下でもなく、
そのような素朴な賛美以外残らないんです。

シュラッターの、多くの言葉を割いて
さまざまな角度・視点から
キリストの栄光を語るその言葉遣いに
確かに圧倒されてはいます。

そのように、私たちもキリストを賛美できたらと願うわけですが、
私たちはありのまま、キリストを崇めるのみ。

そんな心境にさせられる箇所でした。



旧約の時代に生きた人たちは、
神の言葉を、神の現れを、
超自然的な方法で味わっていました。

その神の言葉の直接の執行者は
主に御使いだった、と
シュラッターは表現しています。

「風をご自分の使いとし、
 焼き尽くす火をご自分の召使いとされます。」(詩篇104:4)

という箇所からも、
自然界のエレメントを御使いとして位置付けている、と私たちは読み取りました。

つまり、神のことばの表れ、
神の働きの直接の担い手が、御使いである、
と解釈しています。


そして今日味わった1:5-9では、
その神の直接の御使いたちに、
神ご自身が次のように命令されるわけです。


「神の御使いはみな、彼を拝め」

と。


これは旧約の時代の人からすれば、
驚くべき言葉だったに違いありません。

神を畏れる者は、
神の御使いをすら恐れていたのに、
その御使いが拝まなければならない存在とは
一体何者なのか、と思ったことでしょう。


その御使いが拝むべき「彼」とは、
お分かりでしょうか。


その「彼」とは、キリストのことです。


神が

「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ」

とおっしゃった、
全宇宙のすべてのすべてよりも尊い御子です。

その御子が、
私たちと同じ姿になられたこと。

「長子」

という表現があるように、
私たちの兄弟となられたわけです。

言い換えると、
私たちを兄弟とするために、
私たちと同じ姿になられたということ。


本当に、神秘が深すぎてこれは
とても理解できるようなことではない、
と思います。とんでもないことです。


そのような抽象レベルで次々と、
キリストの偉業と、
キリストが神の御使いをはるかに超えて
栄光をうけられるべき存在であると
ヘブル人の手紙で語られていきます。


神の御子が、
私たちのもとに来られ、死に打ち勝たれ
罪のきよめを成し遂げられた。

それが、神の右の御座に着くほどの偉業となり
ありとあらゆる賞賛をうけるべき存在となられた。


このような偉業と賛美とが延々と続くわけです。



私たちが自分たちなりに理解している
イエス・キリストの偉業は、
果たしてどれくらい「偉大」なのか。

言葉を重ねれば重ねるほど、
色褪せてしまう私たちのちっぽけな感謝は
本当にこの偉大なキリストを見上げているか。

そのように信仰のあり方を問われるような、
純度の高い賞賛の言葉が
ヘブル人の手紙にはある、と感じます。


旧約の時代の神の言葉に親しんでいたヘブル人。

彼らがあがめていた神の御使いを
はるかに超越する存在が、
彼が親しんでいたはずの聖書に記されていた。

この事実は、
相当にショッキングだったと思います。

さらに、その方を十字架につけてしまった。

もっと衝撃だったに違いありません。



ヘブル人に宛てられたこの手紙は、
キリスト者となって一体何が得られたか?

そのような疑念に苛まれる者たちの信仰を
励ますために書かれました。

キリストと結ばれていること
それ以上に素晴らしい財宝はないという
霊的事実を、
何度も何度も繰り返し味わい直すことが、
どれほど霊的な励ましになるか、
この手紙を読む私たちにも強い共感を
与えてくれます。


今日も信仰の原点は、
このキリストの偉大さにあると
確認できたように思います。


2017年4月16日日曜日

『復活の証人』久保田 周太郎 先生

2017年4月16日 第3主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:マルコの福音書16章1~8節
説教主題:『復活の証人』
招詞:使徒の働き2章32節
神はこのイエスをよみがえらせました。
私たちはみな、このことの証人です。


2017年4月14日金曜日

第3主日礼拝のお知らせ

2017年4月16日 第3主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:マルコの福音書16章1~8節
説教主題:『復活の証人』
招詞:使徒の働き2章32節
神はこのイエスをよみがえらせました。
私たちはみな、このことの証人です。
教会学校
聖書のお話:『復活の主』
聖書箇所:ヨハネの福音書20章1~18節
暗唱聖句:1テサロニケ4章14節
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。


2017年4月11日火曜日

今日の青年会

今日は火曜の青年会。  
 
いつもとかわりなく開催できました。  
お祈りありがとうございます。 
 
今週はアドルフ・シュラッターの  
新約聖書講解シリーズの『ヘブル人への手紙』、第1講の後半でした。 
 
ヘブル人への手紙1章1~4節ですが、 
この冒頭の部分に 
手紙全体の主要なメッセージが込められていて、 
非常に濃密で純粋なキリストのイメージが 
繰り返し描写されていました。 
 
何気なくヘブル人の手紙を読むだけでは 
決してつかめないような水準で、 
キリストの偉大さと栄光とが記述されています。 
 
一体この著者は 
何に動かされてこの手紙を書いたのか。 
 
また、この講解書もなぜ書かれたのか? 
 
このようにみると、キリストの素晴らしさだけを 
語りたいがためなのだなと掴めてきます。 
 
結局のところ、キリストがいかに偉大で、 
神の栄光がキリストに現れているかを 
個人的に体験しない限り 
どんなに文字を読んでも分かない。 
 
そういう種類の内容なんだと思います。 
 
 
いくら文字だけを目でなぞってもピンとこない。 
 
 
それは、読む私たちが 
キリストの偉大さに打ちのめされていないから 
だとも言えるでしょう。 
 
そのように私たちの理解を完全に超えた 
キリストの栄光の素晴らしさは、 
神がご自身のすべてを表現し、キリストに 
すべてをゆだね、完全に一致したゆえのもの。 
 
ことばによって世界を創造された方が、 
その力と栄光とをそのまま御子にゆだねられた。 
 
だからこそ、イエスには力があり、 
神のことばそれ自体であられ、 
すべての主権者となられ、この世界に現れた。 
 
それまで預言者によって 
断片的にしか現されなかった神が、 
キリストにおいて、完全にご自身を現された。 
 
それゆえに、キリストにこそ完全に神が現れ、 
神が生きて働かれていることが示されている。 
 
 
…というような抽象度の記述が続くわけですが、 
ヘブル人の手紙の冒頭は、 
さらっとわかったつもりで読めてしまいますが、 
実は読み手としては浅い理解しかしていなかったのだと気付かされました。 
 
 
困難の中にあり、 
信仰的にさまざま攻撃を受け 
土台が揺らいでいたヘブル人には、 
信仰の基礎であられるキリストが 
一体何者であるのか改めて思い起こすようにと 
この著者は示しています。 
 
 
これは私たちにとっても、 
一体キリスト者であることの意味は 
なんなのかと信仰が揺るぐ時に 
思い出さないといけない励ましです。 
 
 
キリスト者になったことで得られた 
最大の収穫は、キリストと一つになること。 
 
神そのものがご自身を 
惜しげも無く完全に表現されたのが御子であり、 
その御子が私たちと一つとなられ、 
すべての主権者であられる方と、 
共同の相続人としてくださった。 
 
これがこの世のすべてのすべてを超えて、 
最高の祝福であり、贈り物である。 
 
このような霊的な事実を、 
何度も何度も繰り返し思い起こし、 
霊的な活力にしていかないといけません。 
 
キリストから目を離さずに、 
常に霊において目を覚ましていたいと 
思うばかりです。 
 
 
ヘブル人の著者が味わっていた 
キリストの栄光を目の当たりにする感動を、 
薄めることなく伝えようとする指南者のように 
私たちも霊的に燃やされ続けたいと願います。 
 
味気なく、感動もなく聖書を読んでしまう時。 
 
そのような時にこそ、 
生きた実感をもってキリストの栄光に 
打ちのめされたいと願うわけです。 
 
 
神の目からはあまりに自明で、また、 
人間の目からは、あまりに素晴らしすぎるため、 
キリストの偉大さは、断片的な言葉をまとめて 
知性によって理解するというものではないのだと 
改めて実感させられます。 
 
感覚的に言えば、 
キリストの偉大さに「出会う」こと。 
キリストの目撃者となること。 
 
このような霊的な体験を 
日々重ねていければと願います。 
 
 
…講解書も出だしから濃厚なので、 
読了するまでに何度くじけるかわかりませんが、 
この著者が味わった霊的感動を、 
同じような密度で味わっていけたらと思います。 


2017年4月9日日曜日

『私を思い出してください』久保田 周太郎 先生

2017年4月9日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:ルカの福音書23章39-43節
説教主題:『私を思い出してください』
招詞:ルカの福音書23章42節
イエスさま。
あなたの御国の位にお着きになるときには、
私を思いだしてください。

2017年4月8日土曜日

第2主日礼拝のお知らせ

2017年4月9日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:ルカの福音書23章39-43節
説教主題:『私を思い出してください』
招詞:ルカの福音書23章42節
イエスさま。
あなたの御国の位にお着きになるときには、
私を思いだしてください。
教会学校
聖書のお話:『十字架』
聖書箇所:ヨハネの福音書19章17~42節
暗唱聖句:ヨハネの福音書3章16節
神は、実に、
そのひとり子をお与えになったほどに、
世を愛された。
それは御子を信じる者が、
ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである



2017年4月5日水曜日

今日の青年会

今日は火曜の青年会。 
 
いつもとかわりなく開催できました。 
お祈りありがとうございます。 
 
 
先週で読了した『ラディカル』に続き、今週から 
アドルフ・シュラッター(1852~1938年) 
という、スイス出身のドイツで活躍した神学者の 
新約聖書講解シリーズの『ヘブル人への手紙』を読み進めることになりました。 
 
 
さっそく第1章の前半、 
ヘブル1:1-2のたったの2節だけを 
取り上げましたが、非常に密度が高いです。 
 
これまで祈りや結婚などのテーマに絞って 
関連書を読んできましたが、 
やはり聖書にかなう言葉はないなと感じます。 
(注解書ではありますが) 
 
注解書を利用するのも、 
私たちの知識と経験の浅さからでは 
汲み取るべきものも汲み取れないから。 
 
今以上に深くみことばを味わうためです。 
 
 
 
はじめに、ヘブル人への手紙は 
一体誰が誰に向けて書いたのか、 
ということすらこれまで意識して読んでいなかったと気付かされました。 
 
漠然と、パウロじゃないの? と。 
 
けれども、実はそうではないというのが 
シュラッターの立場です。 
 
バルナバだとか、アポロだとか、通説では 
パウロ以外が著者として候補にあがっていますが 
実のところ誰なのかわかりません。 
 
そして、実際誰が書いたのかは 
特別な問題ではないからこそ 
明示されていません。 
 
描かれている主イエスの偉大さこそが 
この手紙で主題であり、 
読み手が再び霊的な励ましを得ること。 
 
それが目的であるので著者の特定は 
ほとんど問題にならないというのは、 
大きく頷けるところでした。 
 
 
 
一方、この手紙の宛先はヘブル人。 
つまり、ユダヤ人キリスト者、でした。 
 
彼らは 
イエスの十字架の死と復活があってのち、 
使徒によって急速に福音が広がる中 
非常に大きな抵抗と迫害があった状況で、 
古代より伝承されてきた旧約の民。 
 
ユダヤ人はキリストを受け入れるのに 
大きな大きな抵抗があったのではないかと 
想像します。 
 
これまで先祖代々生ける神の言葉を大事にし、 
メシヤの到来を待望して生きてきたユダヤ人… 
 
文化や慣習、 
親族や友人との関わり、 
日常のすべてが旧約の神を中心としていました。 
 
文字どおり、王国の復興を願って 
暗澹とした生活から救われることを期待していたに違いありません。 
 
 
そんな中突然現れたのがナザレのイエス。 
 
彼こそが救世主で、イスラエルの繁栄を 
再び現実のものとしてくれるに違いない、 
と多くの民衆が期待し、イエスと共に過ごす中 
弟子たちは彼こそメシヤだと確信しました。 
 
ですが、彼らの期待とは反対に 
彼は十字架で死にました。 
もっとも呪われた悲惨な死に方です。 
 
一体これまでの彼への期待はどうなったのか。 
 
..大きな失望が広がったのは疑いありません。 
 
 
弟子たちも引きこもって 
人目を避けるようになってしまいました。 
 
 
そして、イエスの復活、聖霊降臨。 
 
 
こうして、次第に 
イエスがなされたことの大きさ、 
神の愛の深さが人々に理解されていきます。 
 
イエスの十字架と復活の意味、 
どれほど素晴らしいことなのか 
福音が爆発的に広まっていきます。 
 
 
けれども、律法をこれまで神の言葉として 
畏れかしこんできたユダヤ人たちは 
どうだったでしょうか? 
 
イエスが生ける神の言葉そのものであること、 
律法の完成者であることを 
律法や慣習を捨て置いて 
簡単に受け入れられるわけがありません。 
 
 
この手紙の受取人のヘブル人は、 
古くからの慣習、旧約的な文化で生きていて、 
のちにキリスト者となった人たちでしょうか。 
 
つまり、旧体制から見れば異端と見られる 
グループでしょう。 
 
彼らは異端者ですから、当然攻撃にあいますし、 
日常生活すらままならないほどの迫害もあったでしょう。 
 
社会的待遇はひどかったに違いありません。 
 
 
そんな彼らが、これまでの日常を捨ててまでキリスト者となったのは一体なぜでしょうか。 
 
なぜ、なんのために 
キリスト者であろうとし続けたのでしょうか。 
 
どんなメリットがあったのでしょうか。 
 
 
 
このような境遇にあったヘブル人を思うだけで、 
今を生きる私たちに通じる問いかけを感じます。 
 
 
私たちはなぜキリスト者なのだろうか。 と。 
 
 
 
キリスト者であることで、 
一体何が得られるのだろうか。 
 
神から受け取った律法を守ること。 
それ以上に何か加える必要があるのだろうか。 
 
 
ヘブル人には、 
絶えずこのような問いがありました。 
 
 
 
聖書を神の言葉として疑いなく受け取るならば、 
旧約の律法の体現者として、 
神の言葉を授かったものとしてのイエスを 
否定することはないはずです。 
 
神の言葉を恣意的に選別する態度は、 
本当の意味で神の言葉を尊重しているとは言えません。 
 
真の意味で神を知り、神を愛するなら、 
イエスを信じ、イエスの言葉を受け止めます。 
 
 
なぜなら、 
イエスは、神の御子であり 
常に神と完全に一致し、 
神の言葉が発せられたその場におられる為です。 
 
 
 
今、人生が灰色で、 
不遇の身にあったとしても 
キリストを信じる理由。 
 
いや、キリストを信じることが 
社会的には圧倒的に不利益を被るとしても、 
キリスト者であろうとする理由。 
 
 
この手紙は、 
このようなキリスト者だろうとする 
明確な理由がぐらついている人にこそ 
必要な手紙です。 
 
ヘブル人がまさしくそのような境遇にあり、 
絶えず外からも内からも攻撃にさらされ 
信仰の土台が揺さぶられていました。 
 
 
そのために、ここに著者の励ましがあり、 
イエスの偉大さへの注目を促します。 
 
そして、キリスト者であることの 
最大の恩恵と、最上の収穫とがなんであるか 
私たちに思い起こさせてくれるのです。 
 
 
神の言葉なるイエスに結びつくこと。 
 
これ自体が、最高の宝だというのです。 
 
 
この世にあってはどこまでいっても、 
反射的に金銭的な枠組みで優劣を測り 
損得勘定で、物事を評価します。 
 
そのモノサシでいえば、 
キリスト者であることは損でしかないでしょう。 
 
ですが、神の目から見れば 
キリストこそが最善であり、それ以外はすべて 
朽ちていく価値なきものに過ぎません。 
 
 
このことをどれだれ実感を持って味わえるか。 
 
自分のこととして、 
今も生きて働かれる神の言葉として 
受け止められるか。 
 
これに尽きると思います。 
 
 
キリストが神の御子であり、 
神の言葉の体現者であり、完成者である。 
 
その、キリストと結びつくことが、 
どれほど素晴らしいことであるのか。 
 
 
ヘブル人への手紙の著者は、 
このようにイエスの偉大さに焦点をあて、 
霊的に励ましていきます。 
 
 
私たち自身もきっと 
ヘブル人のように古い生き方と、 
キリストにある新しい生き方との境界を 
さまよっているとして読めば、 
大きな励ましを得るに違いありません。 
 
 
キリスト者になって何になるか? 
 
といった、 
この世的な価値観における問い自体を 
捨てないといけません。 
 
 
「キリスト者であることそれ自体が最高だ」 
 
というほど、 
イエスと共に歩むことは素晴らしい。 
 
イエスを信じれば、生活が良くなるとか、 
病気が治るとか、結婚できるとか、 
そういうことではありません。 
 
イエスを信じることそのものが、 
何にも代えがたい、最高最善の祝福。 
 
神との親密な関係を持つことができるから。 
 
 
 
 
..手紙を受け取って励まされた 
ヘブル人たちのように 
霊的に熱く燃やされていければなと思います。 

2017年4月2日日曜日

『わがたましいよ。主をほめたたえよ』久保田 周太郎 先生

2017年4月2日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:詩篇103篇1~14節
説教主題:『わがたましいよ。主をほめたたえよ』
招詞:詩篇103篇2節
わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。




第1主日礼拝、牧師就任式のお知らせ

2017年4月2日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:詩篇103篇1~14節
説教主題:『わがたましいよ。主をほめたたえよ』
招詞:詩篇103篇2節
わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
教会学校
聖書のお話:『イエスの裁判』
聖書箇所:ヨハネの福音書18章19~24節、18章28節~19章16節
暗唱聖句:1ペテロ2章22~23節
キリストは罪を犯したことがなく、
その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、
苦しめられても、おどすことをせず
正しくさばかれる方にお任せになりました