熊本北聖書キリスト教会

熊本北聖書キリスト教会

2017年4月18日火曜日

今日の青年会

今日は火曜の青年会。 

いつもとかわりなく開催できました。
お祈りありがとうございます。 

アドルフ・シュラッターの
『新約聖書講解シリーズ』の
ヘブル人への手紙を読んでいます。

今日は、1章5-9節でした。

この手紙の主題を常に振り返りながら、
キリストの偉大さ、栄光を
深々と味わうことができました。

「キリストはなんて素晴らしいんだ」

・・・と、キリスト賛美を言葉にしてしまうと
途端に陳腐になってしまうんですが、
心にはそれ以上でもなくそれ以下でもなく、
そのような素朴な賛美以外残らないんです。

シュラッターの、多くの言葉を割いて
さまざまな角度・視点から
キリストの栄光を語るその言葉遣いに
確かに圧倒されてはいます。

そのように、私たちもキリストを賛美できたらと願うわけですが、
私たちはありのまま、キリストを崇めるのみ。

そんな心境にさせられる箇所でした。



旧約の時代に生きた人たちは、
神の言葉を、神の現れを、
超自然的な方法で味わっていました。

その神の言葉の直接の執行者は
主に御使いだった、と
シュラッターは表現しています。

「風をご自分の使いとし、
 焼き尽くす火をご自分の召使いとされます。」(詩篇104:4)

という箇所からも、
自然界のエレメントを御使いとして位置付けている、と私たちは読み取りました。

つまり、神のことばの表れ、
神の働きの直接の担い手が、御使いである、
と解釈しています。


そして今日味わった1:5-9では、
その神の直接の御使いたちに、
神ご自身が次のように命令されるわけです。


「神の御使いはみな、彼を拝め」

と。


これは旧約の時代の人からすれば、
驚くべき言葉だったに違いありません。

神を畏れる者は、
神の御使いをすら恐れていたのに、
その御使いが拝まなければならない存在とは
一体何者なのか、と思ったことでしょう。


その御使いが拝むべき「彼」とは、
お分かりでしょうか。


その「彼」とは、キリストのことです。


神が

「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ」

とおっしゃった、
全宇宙のすべてのすべてよりも尊い御子です。

その御子が、
私たちと同じ姿になられたこと。

「長子」

という表現があるように、
私たちの兄弟となられたわけです。

言い換えると、
私たちを兄弟とするために、
私たちと同じ姿になられたということ。


本当に、神秘が深すぎてこれは
とても理解できるようなことではない、
と思います。とんでもないことです。


そのような抽象レベルで次々と、
キリストの偉業と、
キリストが神の御使いをはるかに超えて
栄光をうけられるべき存在であると
ヘブル人の手紙で語られていきます。


神の御子が、
私たちのもとに来られ、死に打ち勝たれ
罪のきよめを成し遂げられた。

それが、神の右の御座に着くほどの偉業となり
ありとあらゆる賞賛をうけるべき存在となられた。


このような偉業と賛美とが延々と続くわけです。



私たちが自分たちなりに理解している
イエス・キリストの偉業は、
果たしてどれくらい「偉大」なのか。

言葉を重ねれば重ねるほど、
色褪せてしまう私たちのちっぽけな感謝は
本当にこの偉大なキリストを見上げているか。

そのように信仰のあり方を問われるような、
純度の高い賞賛の言葉が
ヘブル人の手紙にはある、と感じます。


旧約の時代の神の言葉に親しんでいたヘブル人。

彼らがあがめていた神の御使いを
はるかに超越する存在が、
彼が親しんでいたはずの聖書に記されていた。

この事実は、
相当にショッキングだったと思います。

さらに、その方を十字架につけてしまった。

もっと衝撃だったに違いありません。



ヘブル人に宛てられたこの手紙は、
キリスト者となって一体何が得られたか?

そのような疑念に苛まれる者たちの信仰を
励ますために書かれました。

キリストと結ばれていること
それ以上に素晴らしい財宝はないという
霊的事実を、
何度も何度も繰り返し味わい直すことが、
どれほど霊的な励ましになるか、
この手紙を読む私たちにも強い共感を
与えてくれます。


今日も信仰の原点は、
このキリストの偉大さにあると
確認できたように思います。


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