今日は火曜の青年会。
いつもとかわりなく開催できました。
お祈りありがとうございます。
先週で読了した『ラディカル』に続き、今週から
アドルフ・シュラッター(1852~1938年)
という、スイス出身のドイツで活躍した神学者の
新約聖書講解シリーズの『ヘブル人への手紙』を読み進めることになりました。
さっそく第1章の前半、
ヘブル1:1-2のたったの2節だけを
取り上げましたが、非常に密度が高いです。
これまで祈りや結婚などのテーマに絞って
関連書を読んできましたが、
やはり聖書にかなう言葉はないなと感じます。
(注解書ではありますが)
注解書を利用するのも、
私たちの知識と経験の浅さからでは
汲み取るべきものも汲み取れないから。
今以上に深くみことばを味わうためです。
はじめに、ヘブル人への手紙は
一体誰が誰に向けて書いたのか、
ということすらこれまで意識して読んでいなかったと気付かされました。
漠然と、パウロじゃないの? と。
けれども、実はそうではないというのが
シュラッターの立場です。
バルナバだとか、アポロだとか、通説では
パウロ以外が著者として候補にあがっていますが
実のところ誰なのかわかりません。
そして、実際誰が書いたのかは
特別な問題ではないからこそ
明示されていません。
描かれている主イエスの偉大さこそが
この手紙で主題であり、
読み手が再び霊的な励ましを得ること。
それが目的であるので著者の特定は
ほとんど問題にならないというのは、
大きく頷けるところでした。
一方、この手紙の宛先はヘブル人。
つまり、ユダヤ人キリスト者、でした。
彼らは
イエスの十字架の死と復活があってのち、
使徒によって急速に福音が広がる中
非常に大きな抵抗と迫害があった状況で、
古代より伝承されてきた旧約の民。
ユダヤ人はキリストを受け入れるのに
大きな大きな抵抗があったのではないかと
想像します。
これまで先祖代々生ける神の言葉を大事にし、
メシヤの到来を待望して生きてきたユダヤ人…
文化や慣習、
親族や友人との関わり、
日常のすべてが旧約の神を中心としていました。
文字どおり、王国の復興を願って
暗澹とした生活から救われることを期待していたに違いありません。
そんな中突然現れたのがナザレのイエス。
彼こそが救世主で、イスラエルの繁栄を
再び現実のものとしてくれるに違いない、
と多くの民衆が期待し、イエスと共に過ごす中
弟子たちは彼こそメシヤだと確信しました。
ですが、彼らの期待とは反対に
彼は十字架で死にました。
もっとも呪われた悲惨な死に方です。
一体これまでの彼への期待はどうなったのか。
..大きな失望が広がったのは疑いありません。
弟子たちも引きこもって
人目を避けるようになってしまいました。
そして、イエスの復活、聖霊降臨。
こうして、次第に
イエスがなされたことの大きさ、
神の愛の深さが人々に理解されていきます。
イエスの十字架と復活の意味、
どれほど素晴らしいことなのか
福音が爆発的に広まっていきます。
けれども、律法をこれまで神の言葉として
畏れかしこんできたユダヤ人たちは
どうだったでしょうか?
イエスが生ける神の言葉そのものであること、
律法の完成者であることを
律法や慣習を捨て置いて
簡単に受け入れられるわけがありません。
この手紙の受取人のヘブル人は、
古くからの慣習、旧約的な文化で生きていて、
のちにキリスト者となった人たちでしょうか。
つまり、旧体制から見れば異端と見られる
グループでしょう。
彼らは異端者ですから、当然攻撃にあいますし、
日常生活すらままならないほどの迫害もあったでしょう。
社会的待遇はひどかったに違いありません。
そんな彼らが、これまでの日常を捨ててまでキリスト者となったのは一体なぜでしょうか。
なぜ、なんのために
キリスト者であろうとし続けたのでしょうか。
どんなメリットがあったのでしょうか。
このような境遇にあったヘブル人を思うだけで、
今を生きる私たちに通じる問いかけを感じます。
私たちはなぜキリスト者なのだろうか。 と。
キリスト者であることで、
一体何が得られるのだろうか。
神から受け取った律法を守ること。
それ以上に何か加える必要があるのだろうか。
ヘブル人には、
絶えずこのような問いがありました。
聖書を神の言葉として疑いなく受け取るならば、
旧約の律法の体現者として、
神の言葉を授かったものとしてのイエスを
否定することはないはずです。
神の言葉を恣意的に選別する態度は、
本当の意味で神の言葉を尊重しているとは言えません。
真の意味で神を知り、神を愛するなら、
イエスを信じ、イエスの言葉を受け止めます。
なぜなら、
イエスは、神の御子であり
常に神と完全に一致し、
神の言葉が発せられたその場におられる為です。
今、人生が灰色で、
不遇の身にあったとしても
キリストを信じる理由。
いや、キリストを信じることが
社会的には圧倒的に不利益を被るとしても、
キリスト者であろうとする理由。
この手紙は、
このようなキリスト者だろうとする
明確な理由がぐらついている人にこそ
必要な手紙です。
ヘブル人がまさしくそのような境遇にあり、
絶えず外からも内からも攻撃にさらされ
信仰の土台が揺さぶられていました。
そのために、ここに著者の励ましがあり、
イエスの偉大さへの注目を促します。
そして、キリスト者であることの
最大の恩恵と、最上の収穫とがなんであるか
私たちに思い起こさせてくれるのです。
神の言葉なるイエスに結びつくこと。
これ自体が、最高の宝だというのです。
この世にあってはどこまでいっても、
反射的に金銭的な枠組みで優劣を測り
損得勘定で、物事を評価します。
そのモノサシでいえば、
キリスト者であることは損でしかないでしょう。
ですが、神の目から見れば
キリストこそが最善であり、それ以外はすべて
朽ちていく価値なきものに過ぎません。
このことをどれだれ実感を持って味わえるか。
自分のこととして、
今も生きて働かれる神の言葉として
受け止められるか。
これに尽きると思います。
キリストが神の御子であり、
神の言葉の体現者であり、完成者である。
その、キリストと結びつくことが、
どれほど素晴らしいことであるのか。
ヘブル人への手紙の著者は、
このようにイエスの偉大さに焦点をあて、
霊的に励ましていきます。
私たち自身もきっと
ヘブル人のように古い生き方と、
キリストにある新しい生き方との境界を
さまよっているとして読めば、
大きな励ましを得るに違いありません。
キリスト者になって何になるか?
といった、
この世的な価値観における問い自体を
捨てないといけません。
「キリスト者であることそれ自体が最高だ」
というほど、
イエスと共に歩むことは素晴らしい。
イエスを信じれば、生活が良くなるとか、
病気が治るとか、結婚できるとか、
そういうことではありません。
イエスを信じることそのものが、
何にも代えがたい、最高最善の祝福。
神との親密な関係を持つことができるから。
..手紙を受け取って励まされた
ヘブル人たちのように
霊的に熱く燃やされていければなと思います。
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