熊本北聖書キリスト教会

熊本北聖書キリスト教会

2017年4月11日火曜日

今日の青年会

今日は火曜の青年会。  
 
いつもとかわりなく開催できました。  
お祈りありがとうございます。 
 
今週はアドルフ・シュラッターの  
新約聖書講解シリーズの『ヘブル人への手紙』、第1講の後半でした。 
 
ヘブル人への手紙1章1~4節ですが、 
この冒頭の部分に 
手紙全体の主要なメッセージが込められていて、 
非常に濃密で純粋なキリストのイメージが 
繰り返し描写されていました。 
 
何気なくヘブル人の手紙を読むだけでは 
決してつかめないような水準で、 
キリストの偉大さと栄光とが記述されています。 
 
一体この著者は 
何に動かされてこの手紙を書いたのか。 
 
また、この講解書もなぜ書かれたのか? 
 
このようにみると、キリストの素晴らしさだけを 
語りたいがためなのだなと掴めてきます。 
 
結局のところ、キリストがいかに偉大で、 
神の栄光がキリストに現れているかを 
個人的に体験しない限り 
どんなに文字を読んでも分かない。 
 
そういう種類の内容なんだと思います。 
 
 
いくら文字だけを目でなぞってもピンとこない。 
 
 
それは、読む私たちが 
キリストの偉大さに打ちのめされていないから 
だとも言えるでしょう。 
 
そのように私たちの理解を完全に超えた 
キリストの栄光の素晴らしさは、 
神がご自身のすべてを表現し、キリストに 
すべてをゆだね、完全に一致したゆえのもの。 
 
ことばによって世界を創造された方が、 
その力と栄光とをそのまま御子にゆだねられた。 
 
だからこそ、イエスには力があり、 
神のことばそれ自体であられ、 
すべての主権者となられ、この世界に現れた。 
 
それまで預言者によって 
断片的にしか現されなかった神が、 
キリストにおいて、完全にご自身を現された。 
 
それゆえに、キリストにこそ完全に神が現れ、 
神が生きて働かれていることが示されている。 
 
 
…というような抽象度の記述が続くわけですが、 
ヘブル人の手紙の冒頭は、 
さらっとわかったつもりで読めてしまいますが、 
実は読み手としては浅い理解しかしていなかったのだと気付かされました。 
 
 
困難の中にあり、 
信仰的にさまざま攻撃を受け 
土台が揺らいでいたヘブル人には、 
信仰の基礎であられるキリストが 
一体何者であるのか改めて思い起こすようにと 
この著者は示しています。 
 
 
これは私たちにとっても、 
一体キリスト者であることの意味は 
なんなのかと信仰が揺るぐ時に 
思い出さないといけない励ましです。 
 
 
キリスト者になったことで得られた 
最大の収穫は、キリストと一つになること。 
 
神そのものがご自身を 
惜しげも無く完全に表現されたのが御子であり、 
その御子が私たちと一つとなられ、 
すべての主権者であられる方と、 
共同の相続人としてくださった。 
 
これがこの世のすべてのすべてを超えて、 
最高の祝福であり、贈り物である。 
 
このような霊的な事実を、 
何度も何度も繰り返し思い起こし、 
霊的な活力にしていかないといけません。 
 
キリストから目を離さずに、 
常に霊において目を覚ましていたいと 
思うばかりです。 
 
 
ヘブル人の著者が味わっていた 
キリストの栄光を目の当たりにする感動を、 
薄めることなく伝えようとする指南者のように 
私たちも霊的に燃やされ続けたいと願います。 
 
味気なく、感動もなく聖書を読んでしまう時。 
 
そのような時にこそ、 
生きた実感をもってキリストの栄光に 
打ちのめされたいと願うわけです。 
 
 
神の目からはあまりに自明で、また、 
人間の目からは、あまりに素晴らしすぎるため、 
キリストの偉大さは、断片的な言葉をまとめて 
知性によって理解するというものではないのだと 
改めて実感させられます。 
 
感覚的に言えば、 
キリストの偉大さに「出会う」こと。 
キリストの目撃者となること。 
 
このような霊的な体験を 
日々重ねていければと願います。 
 
 
…講解書も出だしから濃厚なので、 
読了するまでに何度くじけるかわかりませんが、 
この著者が味わった霊的感動を、 
同じような密度で味わっていけたらと思います。 


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