今日も青年会。
火曜の夜は聖書研究、、、
というのが最近の
ライフスタイルになっております。
(来週を最後に、
毎週木曜に変更する予定ですが。)
いつも、この青年会のために
お祈りくださり、
ありがとうございます。
祈りの輪が日々強固に、
広がっていけばと願っております。
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さて、ここのところ読み進めている、
アドルフ・シュラッターの
『新約聖書講解シリーズ』、
ヘブル人への手紙を
今日も読み、分かち合いました。
2章10~13節です。
この短い句に、
どれほどの衝撃が込められいるのか。
味わうほどに、
神の愛の広さ深さが感じられます。
特に
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11~12節
聖とする方も、聖とされる者たちも、
すべて元は一つです。それで、主は
彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
こう言われます。
「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに
告げよう。教会の中で、わたしは
あなたを賛美しよう。」
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どれほどの隔たりが、
神と私たちとの間にあるでしょうか。
聖書を読んだことのある人であれば、
人類に入り込んだ「罪」というのものが
いかに深い溝で、どうにも埋めがたく、
また、人類がどうしようもないほど
堕落した存在になってしまったのかが
感じられ、暗い思いになります。
聖書を読む。
それだけで、
ある人々にとっては後ろめたく
億劫で、自らの負の部分を指摘され、
それこそやかましく説教されるような
気分になるものです。
裏を返せば、
自分自身が自分の醜さを知っている。
どこかで、自分の罪的な性質を
痛感している。
神なしに生きれば生きるほど、
神は遠くに感じられ、
そのまま神の清さと対称的に
自分は汚れていると感じてしまう..
だからこそ普通に生きていれば、
多くの人は「自分は聖い」
などとは恐れ多くて言えないでしょう。
よほど傲慢でもない限り、
大体人は自分を低く見積もるものです。
このような自己像があるものですから、
余計に、11節は衝撃的です。
「すべて元は一つです。」
というのは、
神と私たちが一つ、ということ。
・・受け止められますか?
神と私たちが、
元は一つだということを。
ここでは、
神が私たちを創造されたという
大前提で語っているわけです。
ヘブル人たちは当然
神のことばを宝とする民族ですから、
代々神が天地万物を創造し、
例外なく自分たちも被造物だと
深いレベルで認識していました。
それこそ常識だったのだと思います。
現代日本は、どこか唯物的で、
進化論的な科学が蔓延していますから
人間が被造物だとは
到底受け入れられません。
ましてや、
創造主・被造物という関係性において
元は一つであるという主張を、すんなり受け入れられるわけがありません。
ですが、やはり
神との関係なくしてキリストも
何も理解できないのが私たちの現実です。
キリストが、
受肉され、呪いの象徴である
十字架すら拒まれずに
人類救済の神の計画に従われたこと。
多大な犠牲を払われても、
神のご計画を遂行されたこと。
このことの裏側には、
人類への深い深い愛がなければ
一切説明がつきません。
自分たちの罪すらも自覚できない、
盲目な私たちに向けて、
一方的に神が愛を示された。
このことは本当に、
言葉では説明できないことです。
神と私たちとの、
聖さと汚れという永遠の溝以上に、
キリストは、私たちとキリストが
創造主・被造物という関係において
元は一つだという共通性に
価値を見出されたこと。
それゆえに「兄弟」と呼ばれたこと。
ここに、とてつもなく
深い深い愛が示されています。
反逆者に、汚れ・呪われた者に、
「兄弟」と呼ぶことができますか。
そのような者に親からの贈り物を
相続しようなどと思えますか。
それが、神のご計画なのです。
そして、神の偉大さの表れです。
創造の初めに、人類を造られたときに立てておられた未完の計画を、
キリストによる救済によって
完成へと導こうとされた。
すでに完成者として座しておられる
キリストが長子として、
私たちは兄弟として、
見上げることができます。
キリスト者はどれほど祝福され、
神の愛に包まれているのか。
創造主が確かにおられ、
私たち一人一人も
神に創造され、その名を呼ばれるとは
どれほど祝福に満ちたことなのか。
創造主がいるというだけで、
私たちのいのちには意味が生まれます。
無目的に、無機質に
生成変化して「進化」した物質の延長。
そのような低次の人間理解だから、
生きる意味や喜びがなくなるわけです。
造られた目的があると知ることは、
本当の意味で生きていることです。
真の意味で人間らしく生きることは、
神との関係なくしてありえません。
その神が、
私たちを愛しておられること。
キリストが私たちの元にこられた。
ただそれだけで
十分すぎるほど愛が示されています。
ますますキリストに似た者として、
変えられていく喜びを
日々味わえたらと祈り願います。