熊本北聖書キリスト教会

熊本北聖書キリスト教会

2017年5月9日火曜日

今日の青年会

今日は火曜の青年会。 

いつもとかわりなく開催できました。
お祈りありがとうございます。 

アドルフ・シュラッターの
『新約聖書講解シリーズ』の
ヘブル人への手紙を読んでいます。


先週は、一つ飛ばして
2章に入ってしまっていたので、
1章の残りの部分に戻りました。

読んだのは、
1章の10~14節です。


キリストはいかに偉大であるか。

というのが主題のこの章は、
まとめればまさに文字通り主題のまま。
キリストの偉大さが延々と語られます。


ここでは旧約聖書を引用して、
しかも御使いと比較して
キリストの偉大さ、
その栄光が描かれます。


ヘブル人=ユダヤ人キリスト者

が手紙の読者だったことを踏まえると、
彼らの文化背景、常識などが
うっすらと浮かび上がってきます。

今日読んでいて特に気になったのは、
現代日本に生きる私達との一番の違い、
「御使い」に対する感覚です。


私たちは「御使い」という存在を
空想上のものとしてしか
捉えていない文化に生きています。

小説や、映画、ファンタジーの中の、
ちょっと崇高な、キャラクターの一部。

そのくらいの感覚でしか「御使い」を
捉えていません。

いや、捉えているとすら
言えないレベルでしょう。

だから、
この手紙の著者がいくら繰り返し
キリストは御使いよりも
偉大だと述べても、
いまいちピンとこないわけです。


一方で、この手紙を受け取った
2000年前のユダヤ人の
御使いに対する感覚は
どうだったでしょうか。

私たちとはかなり違います。

たとえば使徒12章15節の、
牢獄から御使により助け出された
ペテロが門で戸を叩いたシーン。

——————————

彼らは、「あなたは気が狂っているのだ」と言ったが、彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。

——————————

という箇所です。

この言葉からは日常的感覚の延長に、
「御使い」がいることがうかがえます。

冗談だったのかなんなのか
わかりません。

それでも、
獄中にいるはずのペテロが
門の外にいるわけがない、
だったらそれは彼の御使いだ、
とやや乱暴にいってしまう感覚。

それは、文化的に、
御使いをどこか身近に捉える感覚が
あったからだと言えないでしょうか。

少なくとも、
現代日本人のような
ゲームや映画などのファンタジーの
天使とはまったく違います。


ヘブル人の手紙に出てくる御使いは、
神の言葉を直接に委託された
神に属する人間よりはるか上位の存在、
神に直接奉仕する存在でした。

当然、神に直接見える存在ですので、
人間とは比べるもなく聖い存在として
恐れられていました。


そのような認識があったからこそ、
この手紙で語られる
キリストは、「あの」御使いよりも
もっと偉大で、栄光に輝いている
という論法が通用したのでしょう。


その御使いですら、
「彼を拝め」と神に命じられる。

その「彼」というのがキリストであるとは、
この手紙の受け手にとっては
衝撃だったに違いありません。


また、
旧約聖書を丹念に正しく
読み取ることができるなら、
神の言葉=キリストと理解できるはずだ。

というこの手紙の著者の理解も
当時非常に際立っていたと思います。


ユダヤ文化圏で
代々尊重し恐れられてきた
神の言葉は、イエスによって実現した。

このような理解がなかったからこそ、
イエスは直接的には
パリサイ人らによって
十字架につけられたわけですし、
ユダヤの多数派は相変わらず
キリスト者を迫害していたわけです。


あなたがたがこれまで信じ、
守ってきた神の言葉は、
イエスのそのものであり、
イエスによって完成した。

という著者の指摘は、
どれだけ衝撃があったことでしょうか。


そして、キリスト者にとって
どれだけ大きな励みになったことか。



ヘブル人への手紙の著者は、
まさに、キリストの偉大さを
旧約聖書の文脈に沿って描き出し、
大きな励ましを与えようとしました。


キリストが
神の言葉そのものであること。


このメッセージの素晴らしさは、
神の言葉を恐れている人にこそ
通用しましたが、

神を恐れられるかどうかは
やはり聖霊の働き以外の何物でもない
と思います。


私たちの能力では、
神の計画の素晴らしさをほとんど
理解できず、キリストの偉大さも
神の言葉の重みも
わかりようがありません。



キリストに結び合わされ、
新しいいのちに生かされていること。

この神のみわざの偉大さ、
聖霊に満たされることの祝福を、
日々味わい、
感謝を深めていければと願います。



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