今日は青年会がありました。
(先週はお休みをいただきました)
いつも祈りに支えられ、
主にある深い交わりが持てたことを
心より感謝いたします。
直接は顔と顔とを合わせていなくとも、
祈りにおいて一致できること。
本当に大きな恵みだと思います。
さて、今日は
引き続きシュラッターの
「新約聖書講解シリーズ」ヘブル人への手紙
の続きを読み進め、2章に入りました。
(読み始めて気づきましたが、
実は1章の最後を飛ばしてしまいました!)
この手紙の受取手のヘブル人とは
ユダヤ人キリスト者のことで、
当時、社会的にも、宗教的にも
非常に弱い立場に置かれた人たちです。
圧倒的に劣勢で、少数派。
彼らはキリスト者であることが
一般的にはなんのメリットもないのに
あえてキリストを信じ受け止めた人たちです。
そういった人々に向けて
励ましを与えるために書かれたのが、
ヘブル人への手紙の趣旨でした。
あなたがたは
何よりも変えがたい価値のある
キリストに連なっているのだ。
全宇宙以上に素晴らしい
キリストと一つになっているのだ。
そのキリストの栄光を、偉大さを、
改めて味わい直そうではないか。
・・・というようなメッセージでしょうか。
今この日本に生きる私たちにとっても、
置き換えやすいテーマだと思います。
圧倒的に社会においては
少数派であるクリスチャン。
キリストを信じて一体何になるのか?
そのような責めに内からも外からも
さらされている私たち。
キリストを信じる意味は一体何なのか?
その問いに、
ダイレクトに答えているのが
ヘブル人への手紙なんだと言えるでしょう。
さて、1章ではイエスの偉大さが
重ね重ね語られていました。
あの、万物を創造された神が
御言葉を託した御使いでさえも、
「彼に従え」と神に言わしめた、キリスト。
2章でも
キリスト礼賛の文脈を引き継いでいます。
今日読んだところは、
「イエスの低さの中にも栄光がある」
でした。
ここでいう「低さ」というのは、
当時人々の間で暗い謎であった、
十字架で死なれた神の御子という、
およそ矛盾する真逆の印象についてです。
何よりも聖く、尊厳があり、
栄光に輝く神の御子であるというのに、
どうして醜い肉体をまとい、
呪いの象徴である十字架にかかったのか。
人々から疎まれ、汚らわしいと蔑まれ、
磔にされた醜い姿が、
どうして神の御子でありえたのか。
こういった疑問があったのだろうと思います。
ですが、ここでもこの手紙の著者は、
「低さ」ですらも最高に素晴らしいと
キリストを讃えるわけです。
私たちの通り一辺倒のちっぽけな思い込み。
そんなのとは次元が全く違うと看破するわけです
シュラッターの解説を読んだ私たちは、
ちょっと卑近な例に置き換えて
理解を深めようと試みました。
最大の功労者は、
最大の醜さをすら厭わない。
この意味において、低さと高さは
同時に存在する。 と。
キリストは、
人類の罪穢れを一身に背負われました。
その象徴が十字架の死です。
十字架の死こそ、
いわば私たちの過去現在未来すべての罪を
濃縮し、目に見えるようにしたもの。
その罪が、あのひと時において
一度に処分されるべく表にでてきました。
その罪を拭いさる姿は、
悲惨で、醜く、呪われる姿だった
に違いありません。
その姿は、実のところ
キリストそのものの本質ではなく、
私たちの罪が投影したものです。
罪を処分する瞬間が、
どれほど「低い」状態であったのか。
いや、私たちの罪的な性質が、
どれほど深く底知れないのか。
そんなことを思わされます。
そして、キリストが私たちの罪を贖われた。
これがどれほど偉大で、
天地万物が賞賛するに値するほどなのか。
神の創造の目的にかなうように
回復の道を整えたことが、
どれほど喜ばしいことか。
天の天の御使いたちもが
声をあげて賞賛することの「高さ」。
この、罪を背負うイメージの痛ましさと、
罪を贖い完了させた賞賛の大きさ。
まさに十字架の死と復活が
「低さ」と「高さ」
両方を同時に表現しているのだと思います。
私たちは、このキリストに結び合わされ、
生かされています。
肉体は朽ちていっても、
霊的には永遠のいのちを持っています。
きたるべき世界の主であり、
すべての相続者であるキリスト。
私たちはこのキリストに似た姿となるべく
招かれており、今、福音を握りしめています。
断片的に語られた旧約時代の神の言葉
ではなく、神の言葉の完成者であるイエス。
そのイエスと出会い、生かされ、
共に来るべき世界の相続人となるという約束。
キリストにおいて神との関係を回復し、
地を良く管理すべく創造された人間の目的を
果たしていくこと。
すべてはキリストと結ばれてこそ進められる
神のいつくしみ深い計画だといことを、
改めて味わっています。
詩篇8篇に出てくる「人」というのを、
ヘブル人への手紙の著者が「イエス」
という解釈をしているという指摘が、
今日は特に印象深かったので、
一度味わってみてください。
世界は、まだ完成への途上にあるということ。
けれども、ただ一人イエスのみが
既に完成されており、
私たちは彼に連なるものとして招かれ、
いずれキリストと同じく
世界の相続人になっていくという、
新しい約束の祝福の大きさに気づかされるでしょう。
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