熊本北聖書キリスト教会

熊本北聖書キリスト教会

2017年5月23日火曜日

今日の青年会

今日は青年会がありました。 
 
いつも祈りに覚えてくださり 
ありがとうございます。 
 
それぞれが日常の忙しさから時間を割いて 
ここに集められること、 
本当にありがたいことだな、と思います。 
 
 
自分の場を離れて、 
自分の時間をささげること。 
 
多少の犠牲があるからこそ、 
このことそのものが貴重にな時間になる 
と実感しています。 
 
 
// 
 
 
さて、ここのところ読み進めている、  
アドルフ・シュラッターの  
『新約聖書講解シリーズ』、  
ヘブル人への手紙を  
今日も読み、分かち合いました。  
  
2章13~18節です。  
 
「イエスの低さにも栄光がある」 
 
という主題の2章は、 
私たちの罪を贖うために受肉された 
イエスについて記述されています。 
 
御使のためではなく、 
私たち人間のために犠牲を払われた、 
という点が強調されていました。 
 
 
主イエスと私たちが 
「兄弟である」という理解に強調点がおかれ 
だからこそ多大な犠牲をいとわなかった、 
という流れで話が進みます。 
 
どうしてそこまでして、 
そのままで聖いお方が 
人間の姿をとってこられたのか。 
 
 
ここには文面以上の驚きが 
込められいてると思います。 
 
というのも、 
肉と血を受けられたという表現には、 
肉体をもつことの負の側面が 
強調されているとみられるから。 
 
肉体をもつというのは、 
老いや死を意味しますし、 
汚れの象徴でもあったのだと 
容易に想像できます。 
 
神との対比において聖さの対局にあるのが 
肉体だとも言えるでしょう。 
 
 
死と汚れと分かちがたく結びついた肉体。 
 
その肉体を、神の御子がまとわれた。 
 
 
律法を信じ、神をおそれる者からすれば 
限りなく矛盾しているわけです。 
 
 
だから、パリサイ人たちが 
イエスを拒絶したのも 
理解できなくありません。 
 
つくづく、信仰というのは 
人間のわざではないと思わされます。 
 
 
 
私たちを「兄弟」と呼ばれ、 
心から愛されるがゆえに、 
私たちを同じになられたイエス。 
 
肉体をもたれたがゆえに、 
罪は一切ありませんでしたが、 
死に従われることまでされ、 
私たちが通るべき以上の道を通られました。 
 
 
アダムによって人類に入り込んだ罪と死。 
 
その破壊的な力には 
人類はどうにも抗いようがありません。 
 
しかも、神に対して 
いのちを失っていること、 
罪的な存在になっていることすら 
自覚がありません。 
 
 
いのちがないのに、 
それに気づくことさえできない状態。 
 
それが私たちの罪的な姿、 
死に定められた姿です。 
 
 
このような私たちには、 
死からの解放がどうしても必要なのですが 
自分たちではどうすることもできません。 
 
しかもその必要性にすら気づけないのです。 
 
 
神に対して支払うべき代価を 
私たちは持ち合わせていません。 
 
支払うまでは、 
いつまでもいのちを失った状態にありますが 
どこからも、その代価が得られないのです。 
 
 
だから、キリストが 
私たちの代わりに支払われた。 
 
 
これが聖書の教える「救い」です。 
 
 
キリスト以外に、 
私たちの罪を埋め合わせる 
神に支払うべき代価はありません。 
 
 
だから、キリストは代えがたく、 
何よりも尊いことを私たちにされた 
といえるわけです。 
 
死に繋がれていた私たちに、 
本当のいのちを与えてくださったというのは 
ご自身が、人類の神への反逆罪の 
支払いの代価を払われたから、です。 
 
 
こうして、いずれ朽ちゆく私たちの 
地上の歩みも、キリストによって 
意味あるものに変えられました。 
 
死んだら終わりという虚無的な世界観から、 
死んでも生きるという希望の人生に。 
 
 
どれほどまでに 
キリストが大きなことをされたか、 
その理解は、 
 
私たちが神に対して、 
どれほど罪的な存在であるかの理解と同値。 
 
 
知ろうと知るまいと、 
人は例外なく神の呼びかけに応答しません。 
 
それが、罪的な性質であり、 
いのちを失った姿です。 
 
 
この姿に自覚し、 
救い主を渇望し、受け入れること。 
 
これは、聖霊の働き以外にありえません。 
 
 
主に生かされたことの喜びをもって 
歩むことは、本当に、 
聖霊の働きでしかないと思わされます。 
 
 
キリストがなさった偉業の理解も、 
また聖霊の働きでしょう。 
 
 
 
私たちを罪から解放するために、 
イエスは受肉され、死にまで従われた。 
 
イエスの「低さ」にも栄光が満ちている。 
 
 
ことことを2章から学びました。 
 
 
 
テンプレートのように、イエス様が 
十字架に代わりにかかってくださった、 
と信仰告白を形式化してしまうのでなく、 
 
もっと切実な自分の体験として、 
 
私の罪を解放してくださった方がおられ、 
神との断絶をとりなしてくださった方が 
多大な犠牲を払われたということ、 
その実感を得られるよう、 
霊の目が開かれますように。 
 
そのように祈り求めます。 


0 件のコメント :

コメントを投稿