本日の青年会。
梅雨も真っ盛り。
かなり湿気が多くなってますね。
先週は空いてしまいましたが、
学びの時間があると
やっぱり引き締まりますね。
みことばの力、でしょうか..。
//
引き続き
シュラッターの『新約聖書講解シリーズ』
ヘブル人への手紙を読んでいます。
今日は前回のつづき、
4章14節~5章10節でした。
「イエスは祭司となられた」
です。
「祭司」と聞くと、
私たちの生活とは完全にかけ離れているので
曖昧なイメージしか浮かびませんが、
当時のヘブル人にとっては日常そのもの。
神殿にいて、
祈りや犠牲を捧げ神に仕える人、
特にレビ人のことを指していました。
今日はその祭司について
役割や目的を学び、
イエスが正当に祭司である理由を
丹念に味わいました。
//
もともと祭司というのは、
神に反逆した罪人である私たちと、
神とをとりなす役目を持っています。
「なだめのそなえもの」
という表現が旧約聖書に
いくつも出てきますが、
神の怒りをなだめる犠牲を払う
直接的な役目を担うのが祭司でした。
私たちに罪があり、
神との断絶があるからこそ
私たちには祭司が必要なのです。
この神と人との断絶した関係において、
犠牲による和解は絶対になくてはならず、
とりなしのために祭司は存在しています。
(もちろん当の祭司も罪人なのですが、
自分の罪のためにも犠牲を払うわけです)
神と人とをとりなす役目をもつ祭司は、
当の本人自身が痛みや苦しみを通って、
とりなす対象の人の罪を十分理解している
必要があります。
神に対峙し、罪を示され、
深く悔いる心をもつからこそ
とりなし手としての役目を担えます。
けれども、なぜイエスは
罪を犯されなかったのに
「祭司」の職務を担えたのでしょうか。
神の御子であり、
人間にはまぶしすぎるほどの栄光をまとい、
圧倒的な高みにおられるイエスが、
果たして私たちの弱さ、痛み、
罪穢れの苦しみがわかるのでしょうか。
イエスは私たちとまったく
同じようになられましたが
罪に陥られず、罪に打ち勝たれました。
私たちが味わう試練や誘惑、
神との関係の中で味わう苦悩。
それらすべてを
イエスは一身に背負われ、味わわれました。
人として歩まれ、弱さをまとわれ、
悪魔の試練にまで遭われました。
私たちが遭遇する以上の痛みと
苦悩と誘惑とがあったに違いありません。
それは、イエスの神との対話において、
特にゲッセマネの祈りに顕著でしょう。
けれども、イエスは一切の誘惑に屈せず
罪を犯されませんでした。
私たちの絶対的な理解者でありながら、
罪を犯されなかった方。
それがイエスです。
この点にこそ、
祭司として最高最大の力が発揮され、
私たちの罪を拭い去る根拠が得られます。
私たちの弱さの
最大の理解者であるということ。
また、罪穢れのないご自身を犠牲にされた
という点において
イエスは私たちのとりなし手、祭司です。
イエスは
私たちの神への反逆を和解へと導く、
唯一のささげものとして
罪穢れないご自身を捧げられました。
罪ある存在でありつつ
祭司職を担っている祭司とは
まったく格が違います。
また、通常の祭司職が
自らその役職を自任するのではなく
神の召命によって任命されるのと同様に、
イエスもまた神に直接召命されました。
————————————————————
「あなたは、わたしの子。
きょう、わたしがあなたを生んだ」
詩篇2篇7節
「あなたは、メルキゼデクの例にならい、
とこしえに祭司である」
詩篇110篇4節
————————————————————
これによって、
イエスは至高の大祭司として
その正当性が確かになったわけです。
そして、とりなしのためにイエスは
犠牲を払うという点においても、
罪穢れのないご自身という
これ以上にないものを捧げられました。
また、どんな祈りも願いも、
「御心ならば」という大原則において
常に神からの応答を待ち、
徹底的に神に服従したのもイエスです。
もともと神の御子として、
そうする必要もないのにイエスは
徹底的に神に服従され、試練を通られ、
尊い犠牲をも払われました。
このことによって
イエスは神との一切の隔てを持たず、
直接に神のみそばに立たれる大祭司として
私たちと神との仲介者となられました。
イエスがいかに犠牲を払い、
痛みを味わい、私たちの苦悩を知り、
しかも神との和解に手を差し伸べられたか。
この霊的事実が、
「イエスは祭司となられた」
という一句に凝縮されています。
私たちが味わう以上の苦痛と苦悩を
肉体を通して、悪魔の誘惑を通して、
神への徹底的な服従を通して、
イエスは完全に理解してくださいました。
だからこそ、
私たちの最良の友であり、理解者であり、
神と人との仲介者なのです。
このイエスによって、
私たちは大胆に神の御座に近づき、
神を父と呼べる特権を得られるわけです。
キリスト者はこの恵みを喜び、
イエスの偉業をたたえ、感謝するのです。
//
ヘブル書は抽象度の高い文言が多いので
文字を目でなぞっているだけの状態ですが、
メンバーと場を共有し、声に出して
じっくり味わうと、
一人で黙読するのとは理解度が違うという
感触があります。
学びの場を設けて、
時間をかけて味わっていくのは
とても恵まれることだなと思います。
2017年6月25日日曜日
『たねまきのたとえ』横山秀喜 先生
2017年6月25日 第4主日礼拝
礼拝説教:横山 秀喜 先生
聖書箇所:マタイの福音書13章1~9節
説教主題:『たねまきのたとえ』
招詞:マタイの福音書13章16節
聖書のお話:『バベルの塔』
聖書箇所:創世記11章1~9節
暗唱聖句:ヤコブの手紙4章6節
礼拝説教:横山 秀喜 先生
聖書箇所:マタイの福音書13章1~9節
説教主題:『たねまきのたとえ』
招詞:マタイの福音書13章16節
教会学校しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。
また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
聖書のお話:『バベルの塔』
聖書箇所:創世記11章1~9節
暗唱聖句:ヤコブの手紙4章6節
神は、高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みをお授けになる
ラベル:
過去の説教音声
2017年6月18日日曜日
『深みに漕ぎ出せ』久保田 周太郎 先生
2017年6月11日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記12章4~9節
説教主題:『深みに漕ぎ出せ』
招詞:ルカの福音書5章4b節
聖書のお話:『約束の虹』
聖書箇所:創世記8章1~9章17節
暗唱聖句:ヘブル人への手紙11章1節
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記12章4~9節
説教主題:『深みに漕ぎ出せ』
招詞:ルカの福音書5章4b節
教会学校深みに漕ぎ出して、網を降ろして魚をとりなさい。
聖書のお話:『約束の虹』
聖書箇所:創世記8章1~9章17節
暗唱聖句:ヘブル人への手紙11章1節
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に言えないものを確信させるものです
ラベル:
過去の説教音声
2017年6月11日日曜日
『神を呼ぶ者』久保田 周太郎 先生
2017年6月11日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記12章4~9節
説教主題:『神を呼ぶ者』
招詞:創世記12章8b節
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記12章4~9節
説教主題:『神を呼ぶ者』
招詞:創世記12章8b節
彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。
ラベル:
過去の説教音声
2017年6月10日土曜日
第2主日礼拝のお知らせ
2017年6月11日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記12章4~9節
説教主題:『神を呼ぶ者』
招詞:創世記12章8b節
聖書のお話:『ノアと箱舟』
聖書箇所:創世記6~7章
暗唱聖句:創世記6章9節
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記12章4~9節
説教主題:『神を呼ぶ者』
招詞:創世記12章8b節
教会学校彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。
聖書のお話:『ノアと箱舟』
聖書箇所:創世記6~7章
暗唱聖句:創世記6章9節
ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、
全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
ラベル:
礼拝のお知らせ
2017年6月9日金曜日
今日の青年会
6月からは木曜夜の青年会。
今日も変わらずにシュラッターの
『新約聖書講解 ヘブル人への手紙』
を読みました。
今日は、3章7~4章2節まで。
テーマは
「イスラエルの不信仰が
キリスト教界に警告を与える」
というもの。
かなりギクっとするような、
非常に手厳しい耳の痛い話しでした。
そして教会に通っている人こそ当てはまる、
自分事として受け止めたくもない、
霊的な警告に対して無関心な態度。
イスラエルの不信仰の姿を
他人事として裁いて終わってしまう傾向..
そのようなことが
指摘されたようにも思います。
私たちは、エジプトから脱出せられ、
救われたイスラエルのほとんどは
荒野で滅びたという信仰の脱落について、
自分に無関係なものとしてしか
考えられません。
洗礼をうけて教会に行っている。
これ以上になにが必要なの?
と、逆に質問すらしてしまうと思います。
そんな私たちに与えられているみことばを、
注意深く、忠実に読むならば、
決して、洗礼を受けて
教会に行きさえすればそれで
完全に終了だとは教えていないことが
わかるはずです。
イスラエルの民がエジプトの奴隷から
解放され、約束の地に連れ出されたように、
私たちはまったく同じような立場に
置かれています。
救われた事実があり、
まだ果たされていない約束がある。
この点でイスラエルの民と
まったく同じ状況にあります。
つまり、今も荒野の途上にあるわけです。
(もちろん、救いにあずかり、
永遠の命という希望もあるわけですが)
私たちについて言えば、
キリストの救いにあずかって、
約束の完成を待ち望んでいる状態。
地上の歩みをしていて、
永遠の国の相続人として
新しい永久の命をいただくという約束。
世が終わり、神の国が到来するという約束。
これらのものを、私たちは
今待ちわびて生きています。
こういう意味で、
約束の地へと導かれつつあった
イスラエルの民と同じ状況です。
言い換えれば、まだ
道の途上にあるということ。
さまざまな脱落の誘惑があり、
惑わしがあり、滅びてしまう可能性もある。
そのような位置付けにあります。
私たちも決して安全安心ではないよと、
イスラエルの前例に見出すべきであると
今日の箇所では教えられています。
けれども
私たちはどうしても安逸を貪る傾向があり、
そのような耳の痛い話は聞きたくない。
自分の魂の救いは完全に終了しており、
一切気にかける必要もなく
喜びにふけり、安心していたい。
今の自分で何がいけない?
安全・安心を確定させることの何が悪い?
それが本音ではないかと自問させられます。
//
今日の箇所では、
信仰についてかなりはっきりと
定義がなされていたように思います。
まず、
逆説的に、不信仰、の説明を引用します。
——————————
〔不信仰とは、神から離れる逃避、私たちの生から神を追い出す試み、また、「出て行け!私はあなたを求めない」と言って神に抗議することである。〕
〔私たちは神を求めているのか、それから逃れているのか、そのことは私たちが善を愛するのか、悪を愛するのか、私たちは善から離れたいのか、悪から離れたいのか..〕
——————————
また、信仰、についても
非常に明瞭な解説がなされています。
——————————
〔私たちの救済は、なお未来にある約束である。このような状況にあっては、信ずることこそ肝要なのである。受けた賜物に基づいて、きたるべきものを期待する、これが信仰の行為にほかならない。〕
〔私たちはイエスの恵みと賜物を知っているゆえに、現在の生は、暗やみでも不確実でも、不安でも嘆きでもなく、かえってむしろ信仰にほかならない。〕
〔しかしながら、信仰が求められているゆえに、私たちには不信仰の危険が近づいているのである。〕
——————————
信仰を持ちなさい、という命令は
そういう状況に私たちがあるからこそ
意味のある言葉です。
信仰を持たなくても悪影響がないならば、
あえてこのような警告はないはずです。
私たちがイスラエルの民と同じように、
今も約束の地への途上にあるという認識が、
警告にリアリティを持たせているわけです。
この著者のような霊的認識を、
私たちは持っているだろうか?
イスラエルの民と同じような
信仰が要求される荒野の途上だと
常々理解しているか?
それが今日の主要テーマでした。
//
警告と合わせて語られる「恐れ」について。
結局のところ、
ソロモンも「神を恐れよ」と、
伝道者の書を締めくくっているように
「恐れ」を持ち続けているかどうかに
話がまとまっていきます。
ここで注意したいのが
「恐れる」という言葉が誤解されやすい点。
「恐れなさい」と言われたから、
あの手この手で
心に恐怖を喚起しようとする。
これは技巧的で
聖書がいう「恐れ」とは違います。
もちろん神の求める態度ではないでしょう。
また、指摘されることを嫌がる、
聖書の耳の痛い話を聞きたくない、
神が私たちをどのように裁くかなど、
望まない宣告を拒否する態度、
という意味合いの「恐れ」でもありません。
神の言葉としての聖書から遠ざかったり、
教会に属すことを嫌がったり、
自分の真の姿を指摘されるのを避けたり、
そのような意味の「恐れ」ではありません。
この手紙で言われる「恐れ」というのは、
不信仰に陥ってしまうことへの恐れ、
荒野で滅びたイスラエルのように
信仰的に脱落してしまうことへの恐れ、
です。
イスラエルが、モーセを通して
神の言葉を信仰をもって受け取ったように、
私たちは今、手元にある聖書を通して
神の言葉を受け取っています。
単なる人間の書物とみなすか、
神の言葉とみなすか、
聖書の捉え方で信仰が露わにされます。
不信仰に陥ることを恐れるならば、
この恐れは神の前に正しい恐れとして、
神の言葉を求める原動力となります。
私たちも今なお荒野の途上にあり、
イスラエルのように脱落するかもしれない。
そのような不信仰への恐れをもち、
神の御言葉を恋い慕って歩みたいものです。
また、単に自分のことだけでなく、
教会に属するものたち同士が
支え合うことが勧められています。
祈り合うこと、
御言葉の祝福を分かち合うこと。
そのような日々の営みこそが
キリストの教会の集いなのだろうと
思わされました。
御言葉をどのように捉えるか、
本当の意味で神を恐れているか。
ここにおいて信仰が試されると
学ぶことができました。
キリストの体に属するものとして、
これからも祈り励まし合えたらと思います。
今日も変わらずにシュラッターの
『新約聖書講解 ヘブル人への手紙』
を読みました。
今日は、3章7~4章2節まで。
テーマは
「イスラエルの不信仰が
キリスト教界に警告を与える」
というもの。
かなりギクっとするような、
非常に手厳しい耳の痛い話しでした。
そして教会に通っている人こそ当てはまる、
自分事として受け止めたくもない、
霊的な警告に対して無関心な態度。
イスラエルの不信仰の姿を
他人事として裁いて終わってしまう傾向..
そのようなことが
指摘されたようにも思います。
私たちは、エジプトから脱出せられ、
救われたイスラエルのほとんどは
荒野で滅びたという信仰の脱落について、
自分に無関係なものとしてしか
考えられません。
洗礼をうけて教会に行っている。
これ以上になにが必要なの?
と、逆に質問すらしてしまうと思います。
そんな私たちに与えられているみことばを、
注意深く、忠実に読むならば、
決して、洗礼を受けて
教会に行きさえすればそれで
完全に終了だとは教えていないことが
わかるはずです。
イスラエルの民がエジプトの奴隷から
解放され、約束の地に連れ出されたように、
私たちはまったく同じような立場に
置かれています。
救われた事実があり、
まだ果たされていない約束がある。
この点でイスラエルの民と
まったく同じ状況にあります。
つまり、今も荒野の途上にあるわけです。
(もちろん、救いにあずかり、
永遠の命という希望もあるわけですが)
私たちについて言えば、
キリストの救いにあずかって、
約束の完成を待ち望んでいる状態。
地上の歩みをしていて、
永遠の国の相続人として
新しい永久の命をいただくという約束。
世が終わり、神の国が到来するという約束。
これらのものを、私たちは
今待ちわびて生きています。
こういう意味で、
約束の地へと導かれつつあった
イスラエルの民と同じ状況です。
言い換えれば、まだ
道の途上にあるということ。
さまざまな脱落の誘惑があり、
惑わしがあり、滅びてしまう可能性もある。
そのような位置付けにあります。
私たちも決して安全安心ではないよと、
イスラエルの前例に見出すべきであると
今日の箇所では教えられています。
けれども
私たちはどうしても安逸を貪る傾向があり、
そのような耳の痛い話は聞きたくない。
自分の魂の救いは完全に終了しており、
一切気にかける必要もなく
喜びにふけり、安心していたい。
今の自分で何がいけない?
安全・安心を確定させることの何が悪い?
それが本音ではないかと自問させられます。
//
今日の箇所では、
信仰についてかなりはっきりと
定義がなされていたように思います。
まず、
逆説的に、不信仰、の説明を引用します。
——————————
〔不信仰とは、神から離れる逃避、私たちの生から神を追い出す試み、また、「出て行け!私はあなたを求めない」と言って神に抗議することである。〕
〔私たちは神を求めているのか、それから逃れているのか、そのことは私たちが善を愛するのか、悪を愛するのか、私たちは善から離れたいのか、悪から離れたいのか..〕
——————————
また、信仰、についても
非常に明瞭な解説がなされています。
——————————
〔私たちの救済は、なお未来にある約束である。このような状況にあっては、信ずることこそ肝要なのである。受けた賜物に基づいて、きたるべきものを期待する、これが信仰の行為にほかならない。〕
〔私たちはイエスの恵みと賜物を知っているゆえに、現在の生は、暗やみでも不確実でも、不安でも嘆きでもなく、かえってむしろ信仰にほかならない。〕
〔しかしながら、信仰が求められているゆえに、私たちには不信仰の危険が近づいているのである。〕
——————————
信仰を持ちなさい、という命令は
そういう状況に私たちがあるからこそ
意味のある言葉です。
信仰を持たなくても悪影響がないならば、
あえてこのような警告はないはずです。
私たちがイスラエルの民と同じように、
今も約束の地への途上にあるという認識が、
警告にリアリティを持たせているわけです。
この著者のような霊的認識を、
私たちは持っているだろうか?
イスラエルの民と同じような
信仰が要求される荒野の途上だと
常々理解しているか?
それが今日の主要テーマでした。
//
警告と合わせて語られる「恐れ」について。
結局のところ、
ソロモンも「神を恐れよ」と、
伝道者の書を締めくくっているように
「恐れ」を持ち続けているかどうかに
話がまとまっていきます。
ここで注意したいのが
「恐れる」という言葉が誤解されやすい点。
「恐れなさい」と言われたから、
あの手この手で
心に恐怖を喚起しようとする。
これは技巧的で
聖書がいう「恐れ」とは違います。
もちろん神の求める態度ではないでしょう。
また、指摘されることを嫌がる、
聖書の耳の痛い話を聞きたくない、
神が私たちをどのように裁くかなど、
望まない宣告を拒否する態度、
という意味合いの「恐れ」でもありません。
神の言葉としての聖書から遠ざかったり、
教会に属すことを嫌がったり、
自分の真の姿を指摘されるのを避けたり、
そのような意味の「恐れ」ではありません。
この手紙で言われる「恐れ」というのは、
不信仰に陥ってしまうことへの恐れ、
荒野で滅びたイスラエルのように
信仰的に脱落してしまうことへの恐れ、
です。
イスラエルが、モーセを通して
神の言葉を信仰をもって受け取ったように、
私たちは今、手元にある聖書を通して
神の言葉を受け取っています。
単なる人間の書物とみなすか、
神の言葉とみなすか、
聖書の捉え方で信仰が露わにされます。
不信仰に陥ることを恐れるならば、
この恐れは神の前に正しい恐れとして、
神の言葉を求める原動力となります。
私たちも今なお荒野の途上にあり、
イスラエルのように脱落するかもしれない。
そのような不信仰への恐れをもち、
神の御言葉を恋い慕って歩みたいものです。
また、単に自分のことだけでなく、
教会に属するものたち同士が
支え合うことが勧められています。
祈り合うこと、
御言葉の祝福を分かち合うこと。
そのような日々の営みこそが
キリストの教会の集いなのだろうと
思わされました。
御言葉をどのように捉えるか、
本当の意味で神を恐れているか。
ここにおいて信仰が試されると
学ぶことができました。
キリストの体に属するものとして、
これからも祈り励まし合えたらと思います。
2017年6月4日日曜日
『聖霊降臨』久保田 周太郎 先生
2017年6月4日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:使徒の働き2章1~13節
説教主題:『聖霊降臨』
招詞:使徒の働き2章4節
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:使徒の働き2章1~13節
説教主題:『聖霊降臨』
招詞:使徒の働き2章4節
すると、みなが聖霊に満たされ、
御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
ラベル:
過去の説教音声
2017年6月3日土曜日
第1主日礼拝のお知らせ
2017年6月4日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:使徒の働き2章1~13節
説教主題:『聖霊降臨』
招詞:使徒の働き2章4節
聖書のお話:『レメクとセツ』
聖書箇所:創世記4章17~5章32節
暗唱聖句:創世記4章26節
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:使徒の働き2章1~13節
説教主題:『聖霊降臨』
招詞:使徒の働き2章4節
教会学校すると、みなが聖霊に満たされ、
御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
聖書のお話:『レメクとセツ』
聖書箇所:創世記4章17~5章32節
暗唱聖句:創世記4章26節
人々は主の御名によって祈ることを始めた。
ラベル:
礼拝のお知らせ
2017年6月2日金曜日
今日の青年会
今日の青年会。
今日から6月、
メンバーの都合もあり
木曜開催になりました。
青年会のメンバー一人一人の
霊的な成長のために
続けてお祈り頂ければ幸いです。
//
さて、いつものように
アドルフ・シュラッターの
『新約聖書講解シリーズ』の
ヘブル人への手紙講解。
今日は3章1~6節でした。
テーマは、
「イエスはモーセよりも偉大である」
です。
ながらく教会につらなり、
聖書を読み続けていると
どうしても表面的な理解にとどまって
しまうのがクリスチャンの
霊的な誘惑だと思いますが、
ヘブル人への手紙のように
神学的な内容で、抽象度の高い話になると
理解の怠慢というべきものでしょうか、
顕著にあらわれてしまうなと感じます。
字面通り、
イエスはモーセより偉大だ、
と読んだままそれっきりで、
その内訳に思いを馳せない心が
やはり潜んでいたことに気づかされますが、
なぜ、モーセよりも偉大なのか。
また、それ以前に
モーセが偉大であることは自明なのか?
といったことまで
私たちは考えを深める必要を感じます。
この手紙の読者は、ヘブル人、
ユダヤ人キリスト者です。
モーセを神の使者として、
偉大な指導者として
代々尊敬していた民族でありながら、
キリストを受け入れた者。
そのため
文化的・社会的に攻撃対象となるような
圧倒的な少数派となった人たち。
そのキリスト者たちを励ます手紙が、
このヘブル人への手紙ですが、
文化的土台はやはり旧約聖書にあります。
モーセはユダヤ人にとって
圧倒的な影響力をもつ、
例外なく偉大だと認める指導者。
彼らの心の支えといってもいいでしょう。
そのモーセよりも、イエスは偉大である。
この宣言は、どれほど読者をはっとさせ、
励ましたことでしょう。
自分たちの信じているキリストが、
最高に素晴らしく、崇めるべき
神の御子であるということを
改めて宣言することは
どれほど勇気が得られたことでしょう。
//
これまでの箇所で
御使とイエスとの比較があったように、
3章ではモーセとの比較を通して、
いかにイエスが高いくらいに
座しておらられるか、
順を追って話が進められています。
ここでは、
モーセを信奉していた者たちに対して、
イエスをのみ拝せよと、
どのような根拠で言われているのか。
イエスに従うとは、
モーセに従うことと矛盾しないと、
どのような前提で語られているのか。
この辺りが、最重要項目だと思います。
つまり、同じ神からの信任を受けた、
モーセとイエス。
この2人の指導者は、
どちらも完全に従うべき
神の信任を受けた者。
ただ、イエスとモーセには
圧倒的な違いがある、
というのが今日の主題。
それは、
モーセが神の家の奉仕者であるが、
イエスは神の御子であるという点です。
両者とも神の忠実なしもべではあるものの、
神の家の奉仕者なのか、それとも
神の家の建設者なのか、
それほどの違いがあるというわけです。
また、モーセは
神の御子の栄光の目撃者、証言者ですが、
イエスは、神の栄光そのもの。
証言される者と、証言する者。
神の家の奉仕者か、
神の家の所有者であるか。
この違いは明白です。
//
モーセが仕えた、神の家。
それは、直接的にはアブラハムの子孫、
イスラエルの民ですが、
キリストによって贖われた
クリスチャンたちのことを指します。
「教会は、真のイスラエルであり、アブラハムの子孫であり、聖なる民、神の相続人、神の家である。なぜそうであるのか。私たちはキリストの御業だからである。」
というシュラッターの言葉は、
非常に印象的です。
キリストによって私たちは贖われ、
神のものとされました。
キリストのゆえに、私たちは神の家となり、
神の所有となり、相続人とされました。
この、この上もない祝福を受け取る
私たちには、大きな希望があります。
一方で、それを固く握りしめるようにと、
強く戒めるようなニュアンスが込められているのはどういうわけでしょうか。
ある種の警告的な含みをもたせて、
「もし、私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです」(ヘブル3:3)
と書かれているのは
どういうことなのでしょうか。
ここに、私たちの戦いが暗示されている、
とシュラッターは指摘します。
希望はするすると去っていかないように
固く握りしめるべきであり、
自分の魂を人任せにせず
能動的であるようにというのは、
明らかに、戦いを彷彿とさせます。
確かにキリストにあって希望がありますが、
その希望を掴み続けるのは
私たちの責任の範疇にあるのだと
思わされます。
パウロが信仰の失格者にならないようにと
ある箇所で戒めていたのを思い起こしますが
それと似たような意味合いで、
神の家に属する者とされた私たちは、
そこから抜け落ちることがないように
絶えず喜びと希望とを持ち続けたい。
そのように祈らずにはいられません。
絶えずイエスから目を離さずに、
魂のゆくえが神の家にあるという希望を
固く握りしめてそれぞれの働きを
全うしていきたいと祈り願います。
モーセとイエスとの関係は、
非常に興味深い、
神学的にも重要な主題だと思います。
ますます理解が深まるように、
人に語れるくらいになるように
共に学び進みましょう。
今日から6月、
メンバーの都合もあり
木曜開催になりました。
青年会のメンバー一人一人の
霊的な成長のために
続けてお祈り頂ければ幸いです。
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さて、いつものように
アドルフ・シュラッターの
『新約聖書講解シリーズ』の
ヘブル人への手紙講解。
今日は3章1~6節でした。
テーマは、
「イエスはモーセよりも偉大である」
です。
ながらく教会につらなり、
聖書を読み続けていると
どうしても表面的な理解にとどまって
しまうのがクリスチャンの
霊的な誘惑だと思いますが、
ヘブル人への手紙のように
神学的な内容で、抽象度の高い話になると
理解の怠慢というべきものでしょうか、
顕著にあらわれてしまうなと感じます。
字面通り、
イエスはモーセより偉大だ、
と読んだままそれっきりで、
その内訳に思いを馳せない心が
やはり潜んでいたことに気づかされますが、
なぜ、モーセよりも偉大なのか。
また、それ以前に
モーセが偉大であることは自明なのか?
といったことまで
私たちは考えを深める必要を感じます。
この手紙の読者は、ヘブル人、
ユダヤ人キリスト者です。
モーセを神の使者として、
偉大な指導者として
代々尊敬していた民族でありながら、
キリストを受け入れた者。
そのため
文化的・社会的に攻撃対象となるような
圧倒的な少数派となった人たち。
そのキリスト者たちを励ます手紙が、
このヘブル人への手紙ですが、
文化的土台はやはり旧約聖書にあります。
モーセはユダヤ人にとって
圧倒的な影響力をもつ、
例外なく偉大だと認める指導者。
彼らの心の支えといってもいいでしょう。
そのモーセよりも、イエスは偉大である。
この宣言は、どれほど読者をはっとさせ、
励ましたことでしょう。
自分たちの信じているキリストが、
最高に素晴らしく、崇めるべき
神の御子であるということを
改めて宣言することは
どれほど勇気が得られたことでしょう。
//
これまでの箇所で
御使とイエスとの比較があったように、
3章ではモーセとの比較を通して、
いかにイエスが高いくらいに
座しておらられるか、
順を追って話が進められています。
ここでは、
モーセを信奉していた者たちに対して、
イエスをのみ拝せよと、
どのような根拠で言われているのか。
イエスに従うとは、
モーセに従うことと矛盾しないと、
どのような前提で語られているのか。
この辺りが、最重要項目だと思います。
つまり、同じ神からの信任を受けた、
モーセとイエス。
この2人の指導者は、
どちらも完全に従うべき
神の信任を受けた者。
ただ、イエスとモーセには
圧倒的な違いがある、
というのが今日の主題。
それは、
モーセが神の家の奉仕者であるが、
イエスは神の御子であるという点です。
両者とも神の忠実なしもべではあるものの、
神の家の奉仕者なのか、それとも
神の家の建設者なのか、
それほどの違いがあるというわけです。
また、モーセは
神の御子の栄光の目撃者、証言者ですが、
イエスは、神の栄光そのもの。
証言される者と、証言する者。
神の家の奉仕者か、
神の家の所有者であるか。
この違いは明白です。
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モーセが仕えた、神の家。
それは、直接的にはアブラハムの子孫、
イスラエルの民ですが、
キリストによって贖われた
クリスチャンたちのことを指します。
「教会は、真のイスラエルであり、アブラハムの子孫であり、聖なる民、神の相続人、神の家である。なぜそうであるのか。私たちはキリストの御業だからである。」
というシュラッターの言葉は、
非常に印象的です。
キリストによって私たちは贖われ、
神のものとされました。
キリストのゆえに、私たちは神の家となり、
神の所有となり、相続人とされました。
この、この上もない祝福を受け取る
私たちには、大きな希望があります。
一方で、それを固く握りしめるようにと、
強く戒めるようなニュアンスが込められているのはどういうわけでしょうか。
ある種の警告的な含みをもたせて、
「もし、私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです」(ヘブル3:3)
と書かれているのは
どういうことなのでしょうか。
ここに、私たちの戦いが暗示されている、
とシュラッターは指摘します。
希望はするすると去っていかないように
固く握りしめるべきであり、
自分の魂を人任せにせず
能動的であるようにというのは、
明らかに、戦いを彷彿とさせます。
確かにキリストにあって希望がありますが、
その希望を掴み続けるのは
私たちの責任の範疇にあるのだと
思わされます。
パウロが信仰の失格者にならないようにと
ある箇所で戒めていたのを思い起こしますが
それと似たような意味合いで、
神の家に属する者とされた私たちは、
そこから抜け落ちることがないように
絶えず喜びと希望とを持ち続けたい。
そのように祈らずにはいられません。
絶えずイエスから目を離さずに、
魂のゆくえが神の家にあるという希望を
固く握りしめてそれぞれの働きを
全うしていきたいと祈り願います。
モーセとイエスとの関係は、
非常に興味深い、
神学的にも重要な主題だと思います。
ますます理解が深まるように、
人に語れるくらいになるように
共に学び進みましょう。