熊本北聖書キリスト教会

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2017年6月29日木曜日

今日の青年会

本日の青年会。  
  
梅雨も真っ盛り。 
かなり湿気が多くなってますね。 
 
先週は空いてしまいましたが、 
学びの時間があると 
やっぱり引き締まりますね。 
 
みことばの力、でしょうか..。 
  
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引き続き  
シュラッターの『新約聖書講解シリーズ』  
ヘブル人への手紙を読んでいます。  
  
今日は前回のつづき、  
4章14節~5章10節でした。  
 
「イエスは祭司となられた」 
 
です。 
 
 
 
「祭司」と聞くと、 
私たちの生活とは完全にかけ離れているので 
曖昧なイメージしか浮かびませんが、 
当時のヘブル人にとっては日常そのもの。 
 
神殿にいて、 
祈りや犠牲を捧げ神に仕える人、 
特にレビ人のことを指していました。 
 
 
今日はその祭司について 
役割や目的を学び、 
イエスが正当に祭司である理由を 
丹念に味わいました。 
 
 
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もともと祭司というのは、 
神に反逆した罪人である私たちと、 
神とをとりなす役目を持っています。 
 
「なだめのそなえもの」 
 
という表現が旧約聖書に 
いくつも出てきますが、 
神の怒りをなだめる犠牲を払う 
直接的な役目を担うのが祭司でした。 
 
私たちに罪があり、 
神との断絶があるからこそ 
私たちには祭司が必要なのです。 
 
 
この神と人との断絶した関係において、 
犠牲による和解は絶対になくてはならず、 
とりなしのために祭司は存在しています。 
 
(もちろん当の祭司も罪人なのですが、 
自分の罪のためにも犠牲を払うわけです) 
 
 
 
神と人とをとりなす役目をもつ祭司は、 
当の本人自身が痛みや苦しみを通って、 
とりなす対象の人の罪を十分理解している 
必要があります。 
 
神に対峙し、罪を示され、 
深く悔いる心をもつからこそ 
とりなし手としての役目を担えます。 
 
 
けれども、なぜイエスは 
罪を犯されなかったのに 
「祭司」の職務を担えたのでしょうか。 
 
神の御子であり、 
人間にはまぶしすぎるほどの栄光をまとい、 
圧倒的な高みにおられるイエスが、 
果たして私たちの弱さ、痛み、 
罪穢れの苦しみがわかるのでしょうか。 
 
 
 
イエスは私たちとまったく 
同じようになられましたが 
罪に陥られず、罪に打ち勝たれました。 
 
私たちが味わう試練や誘惑、 
神との関係の中で味わう苦悩。 
 
それらすべてを 
イエスは一身に背負われ、味わわれました。 
 
 
人として歩まれ、弱さをまとわれ、 
悪魔の試練にまで遭われました。 
 
私たちが遭遇する以上の痛みと 
苦悩と誘惑とがあったに違いありません。 
 
それは、イエスの神との対話において、 
特にゲッセマネの祈りに顕著でしょう。 
 
 
けれども、イエスは一切の誘惑に屈せず 
罪を犯されませんでした。 
 
 
私たちの絶対的な理解者でありながら、 
罪を犯されなかった方。 
 
それがイエスです。 
 
 
この点にこそ、 
祭司として最高最大の力が発揮され、 
私たちの罪を拭い去る根拠が得られます。 
 
 
私たちの弱さの 
最大の理解者であるということ。 
 
また、罪穢れのないご自身を犠牲にされた 
という点において 
イエスは私たちのとりなし手、祭司です。 
 
イエスは 
私たちの神への反逆を和解へと導く、 
唯一のささげものとして 
罪穢れないご自身を捧げられました。 
 
罪ある存在でありつつ 
祭司職を担っている祭司とは 
まったく格が違います。 
 
 
また、通常の祭司職が 
自らその役職を自任するのではなく 
神の召命によって任命されるのと同様に、 
イエスもまた神に直接召命されました。 
 
 
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「あなたは、わたしの子。 
 きょう、わたしがあなたを生んだ」 
詩篇2篇7節 
 
 
「あなたは、メルキゼデクの例にならい、 
とこしえに祭司である」 
詩篇110篇4節 
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これによって、 
イエスは至高の大祭司として 
その正当性が確かになったわけです。 
 
 
そして、とりなしのためにイエスは 
犠牲を払うという点においても、 
罪穢れのないご自身という 
これ以上にないものを捧げられました。 
 
また、どんな祈りも願いも、 
「御心ならば」という大原則において 
常に神からの応答を待ち、 
徹底的に神に服従したのもイエスです。 
 
もともと神の御子として、 
そうする必要もないのにイエスは 
徹底的に神に服従され、試練を通られ、 
尊い犠牲をも払われました。 
 
 
このことによって 
イエスは神との一切の隔てを持たず、 
直接に神のみそばに立たれる大祭司として 
私たちと神との仲介者となられました。 
 
 
イエスがいかに犠牲を払い、 
痛みを味わい、私たちの苦悩を知り、 
しかも神との和解に手を差し伸べられたか。 
 
 
この霊的事実が、 
「イエスは祭司となられた」 
という一句に凝縮されています。 
 
 
私たちが味わう以上の苦痛と苦悩を 
肉体を通して、悪魔の誘惑を通して、 
神への徹底的な服従を通して、 
イエスは完全に理解してくださいました。 
 
だからこそ、 
私たちの最良の友であり、理解者であり、 
神と人との仲介者なのです。 
 
 
このイエスによって、 
私たちは大胆に神の御座に近づき、 
神を父と呼べる特権を得られるわけです。 
 
 
キリスト者はこの恵みを喜び、 
イエスの偉業をたたえ、感謝するのです。 
 
 
 
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ヘブル書は抽象度の高い文言が多いので 
文字を目でなぞっているだけの状態ですが、 
メンバーと場を共有し、声に出して 
じっくり味わうと、 
一人で黙読するのとは理解度が違うという 
感触があります。 
 
学びの場を設けて、 
時間をかけて味わっていくのは 
とても恵まれることだなと思います。 



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