熊本北聖書キリスト教会

熊本北聖書キリスト教会

2017年6月2日金曜日

今日の青年会

今日の青年会。 
 
今日から6月、 
メンバーの都合もあり 
木曜開催になりました。 
 
青年会のメンバー一人一人の 
霊的な成長のために 
続けてお祈り頂ければ幸いです。 
 
 
// 
 
 
さて、いつものように 
アドルフ・シュラッターの 
『新約聖書講解シリーズ』の 
ヘブル人への手紙講解。 
 
今日は3章1~6節でした。 
 
テーマは、 
 
「イエスはモーセよりも偉大である」 
 
です。 
 
 
 
ながらく教会につらなり、 
聖書を読み続けていると 
どうしても表面的な理解にとどまって 
しまうのがクリスチャンの 
霊的な誘惑だと思いますが、 
 
 
ヘブル人への手紙のように 
神学的な内容で、抽象度の高い話になると 
理解の怠慢というべきものでしょうか、 
顕著にあらわれてしまうなと感じます。 
 
 
字面通り、 
 
 
イエスはモーセより偉大だ、 
 
と読んだままそれっきりで、 
その内訳に思いを馳せない心が 
やはり潜んでいたことに気づかされますが、 
 
 
なぜ、モーセよりも偉大なのか。 
 
 
また、それ以前に 
モーセが偉大であることは自明なのか? 
 
 
 
といったことまで 
私たちは考えを深める必要を感じます。 
 
 
 
 
この手紙の読者は、ヘブル人、 
ユダヤ人キリスト者です。 
 
 
モーセを神の使者として、 
偉大な指導者として 
代々尊敬していた民族でありながら、 
キリストを受け入れた者。 
 
 
そのため 
文化的・社会的に攻撃対象となるような 
圧倒的な少数派となった人たち。 
 
そのキリスト者たちを励ます手紙が、 
このヘブル人への手紙ですが、 
文化的土台はやはり旧約聖書にあります。 
 
 
モーセはユダヤ人にとって 
圧倒的な影響力をもつ、 
例外なく偉大だと認める指導者。 
 
 
彼らの心の支えといってもいいでしょう。 
 
 
そのモーセよりも、イエスは偉大である。 
 
 
この宣言は、どれほど読者をはっとさせ、 
励ましたことでしょう。 
 
 
自分たちの信じているキリストが、 
最高に素晴らしく、崇めるべき 
神の御子であるということを 
改めて宣言することは 
どれほど勇気が得られたことでしょう。 
 
 
 
// 
 
これまでの箇所で 
御使とイエスとの比較があったように、 
3章ではモーセとの比較を通して、 
いかにイエスが高いくらいに 
座しておらられるか、 
順を追って話が進められています。 
 
 
ここでは、 
 
 
モーセを信奉していた者たちに対して、 
イエスをのみ拝せよと、 
どのような根拠で言われているのか。 
 
 
イエスに従うとは、 
モーセに従うことと矛盾しないと、 
どのような前提で語られているのか。 
 
 
この辺りが、最重要項目だと思います。 
 
 
つまり、同じ神からの信任を受けた、 
モーセとイエス。 
 
この2人の指導者は、 
どちらも完全に従うべき 
神の信任を受けた者。 
 
 
ただ、イエスとモーセには 
圧倒的な違いがある、 
というのが今日の主題。 
 
 
それは、 
モーセが神の家の奉仕者であるが、 
イエスは神の御子であるという点です。 
 
 
両者とも神の忠実なしもべではあるものの、 
神の家の奉仕者なのか、それとも 
神の家の建設者なのか、 
それほどの違いがあるというわけです。 
 
 
また、モーセは 
神の御子の栄光の目撃者、証言者ですが、 
イエスは、神の栄光そのもの。 
 
証言される者と、証言する者。 
 
 
神の家の奉仕者か、 
神の家の所有者であるか。 
 
この違いは明白です。 
 
 
// 
 
 
モーセが仕えた、神の家。 
 
それは、直接的にはアブラハムの子孫、 
イスラエルの民ですが、 
キリストによって贖われた 
クリスチャンたちのことを指します。 
 
 
「教会は、真のイスラエルであり、アブラハムの子孫であり、聖なる民、神の相続人、神の家である。なぜそうであるのか。私たちはキリストの御業だからである。」 
 
 
というシュラッターの言葉は、 
非常に印象的です。 
 
 
キリストによって私たちは贖われ、 
神のものとされました。 
 
キリストのゆえに、私たちは神の家となり、 
神の所有となり、相続人とされました。 
 
 
この、この上もない祝福を受け取る 
私たちには、大きな希望があります。 
 
 
一方で、それを固く握りしめるようにと、 
強く戒めるようなニュアンスが込められているのはどういうわけでしょうか。 
 
 
ある種の警告的な含みをもたせて、 
 
 
「もし、私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです」(ヘブル3:3) 
 
 
と書かれているのは 
どういうことなのでしょうか。 
 
 
 
ここに、私たちの戦いが暗示されている、 
とシュラッターは指摘します。 
 
希望はするすると去っていかないように 
固く握りしめるべきであり、 
自分の魂を人任せにせず 
能動的であるようにというのは、 
明らかに、戦いを彷彿とさせます。 
 
 
確かにキリストにあって希望がありますが、 
その希望を掴み続けるのは 
私たちの責任の範疇にあるのだと 
思わされます。 
 
 
パウロが信仰の失格者にならないようにと 
ある箇所で戒めていたのを思い起こしますが 
それと似たような意味合いで、 
神の家に属する者とされた私たちは、 
そこから抜け落ちることがないように 
絶えず喜びと希望とを持ち続けたい。 
 
そのように祈らずにはいられません。 
 
 
 
絶えずイエスから目を離さずに、 
魂のゆくえが神の家にあるという希望を 
固く握りしめてそれぞれの働きを 
全うしていきたいと祈り願います。 
 
 
 
 
モーセとイエスとの関係は、 
非常に興味深い、 
神学的にも重要な主題だと思います。 
 
 
ますます理解が深まるように、 
人に語れるくらいになるように 
共に学び進みましょう。 
 

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