6月からは木曜夜の青年会。
今日も変わらずにシュラッターの
『新約聖書講解 ヘブル人への手紙』
を読みました。
今日は、3章7~4章2節まで。
テーマは
「イスラエルの不信仰が
キリスト教界に警告を与える」
というもの。
かなりギクっとするような、
非常に手厳しい耳の痛い話しでした。
そして教会に通っている人こそ当てはまる、
自分事として受け止めたくもない、
霊的な警告に対して無関心な態度。
イスラエルの不信仰の姿を
他人事として裁いて終わってしまう傾向..
そのようなことが
指摘されたようにも思います。
私たちは、エジプトから脱出せられ、
救われたイスラエルのほとんどは
荒野で滅びたという信仰の脱落について、
自分に無関係なものとしてしか
考えられません。
洗礼をうけて教会に行っている。
これ以上になにが必要なの?
と、逆に質問すらしてしまうと思います。
そんな私たちに与えられているみことばを、
注意深く、忠実に読むならば、
決して、洗礼を受けて
教会に行きさえすればそれで
完全に終了だとは教えていないことが
わかるはずです。
イスラエルの民がエジプトの奴隷から
解放され、約束の地に連れ出されたように、
私たちはまったく同じような立場に
置かれています。
救われた事実があり、
まだ果たされていない約束がある。
この点でイスラエルの民と
まったく同じ状況にあります。
つまり、今も荒野の途上にあるわけです。
(もちろん、救いにあずかり、
永遠の命という希望もあるわけですが)
私たちについて言えば、
キリストの救いにあずかって、
約束の完成を待ち望んでいる状態。
地上の歩みをしていて、
永遠の国の相続人として
新しい永久の命をいただくという約束。
世が終わり、神の国が到来するという約束。
これらのものを、私たちは
今待ちわびて生きています。
こういう意味で、
約束の地へと導かれつつあった
イスラエルの民と同じ状況です。
言い換えれば、まだ
道の途上にあるということ。
さまざまな脱落の誘惑があり、
惑わしがあり、滅びてしまう可能性もある。
そのような位置付けにあります。
私たちも決して安全安心ではないよと、
イスラエルの前例に見出すべきであると
今日の箇所では教えられています。
けれども
私たちはどうしても安逸を貪る傾向があり、
そのような耳の痛い話は聞きたくない。
自分の魂の救いは完全に終了しており、
一切気にかける必要もなく
喜びにふけり、安心していたい。
今の自分で何がいけない?
安全・安心を確定させることの何が悪い?
それが本音ではないかと自問させられます。
//
今日の箇所では、
信仰についてかなりはっきりと
定義がなされていたように思います。
まず、
逆説的に、不信仰、の説明を引用します。
——————————
〔不信仰とは、神から離れる逃避、私たちの生から神を追い出す試み、また、「出て行け!私はあなたを求めない」と言って神に抗議することである。〕
〔私たちは神を求めているのか、それから逃れているのか、そのことは私たちが善を愛するのか、悪を愛するのか、私たちは善から離れたいのか、悪から離れたいのか..〕
——————————
また、信仰、についても
非常に明瞭な解説がなされています。
——————————
〔私たちの救済は、なお未来にある約束である。このような状況にあっては、信ずることこそ肝要なのである。受けた賜物に基づいて、きたるべきものを期待する、これが信仰の行為にほかならない。〕
〔私たちはイエスの恵みと賜物を知っているゆえに、現在の生は、暗やみでも不確実でも、不安でも嘆きでもなく、かえってむしろ信仰にほかならない。〕
〔しかしながら、信仰が求められているゆえに、私たちには不信仰の危険が近づいているのである。〕
——————————
信仰を持ちなさい、という命令は
そういう状況に私たちがあるからこそ
意味のある言葉です。
信仰を持たなくても悪影響がないならば、
あえてこのような警告はないはずです。
私たちがイスラエルの民と同じように、
今も約束の地への途上にあるという認識が、
警告にリアリティを持たせているわけです。
この著者のような霊的認識を、
私たちは持っているだろうか?
イスラエルの民と同じような
信仰が要求される荒野の途上だと
常々理解しているか?
それが今日の主要テーマでした。
//
警告と合わせて語られる「恐れ」について。
結局のところ、
ソロモンも「神を恐れよ」と、
伝道者の書を締めくくっているように
「恐れ」を持ち続けているかどうかに
話がまとまっていきます。
ここで注意したいのが
「恐れる」という言葉が誤解されやすい点。
「恐れなさい」と言われたから、
あの手この手で
心に恐怖を喚起しようとする。
これは技巧的で
聖書がいう「恐れ」とは違います。
もちろん神の求める態度ではないでしょう。
また、指摘されることを嫌がる、
聖書の耳の痛い話を聞きたくない、
神が私たちをどのように裁くかなど、
望まない宣告を拒否する態度、
という意味合いの「恐れ」でもありません。
神の言葉としての聖書から遠ざかったり、
教会に属すことを嫌がったり、
自分の真の姿を指摘されるのを避けたり、
そのような意味の「恐れ」ではありません。
この手紙で言われる「恐れ」というのは、
不信仰に陥ってしまうことへの恐れ、
荒野で滅びたイスラエルのように
信仰的に脱落してしまうことへの恐れ、
です。
イスラエルが、モーセを通して
神の言葉を信仰をもって受け取ったように、
私たちは今、手元にある聖書を通して
神の言葉を受け取っています。
単なる人間の書物とみなすか、
神の言葉とみなすか、
聖書の捉え方で信仰が露わにされます。
不信仰に陥ることを恐れるならば、
この恐れは神の前に正しい恐れとして、
神の言葉を求める原動力となります。
私たちも今なお荒野の途上にあり、
イスラエルのように脱落するかもしれない。
そのような不信仰への恐れをもち、
神の御言葉を恋い慕って歩みたいものです。
また、単に自分のことだけでなく、
教会に属するものたち同士が
支え合うことが勧められています。
祈り合うこと、
御言葉の祝福を分かち合うこと。
そのような日々の営みこそが
キリストの教会の集いなのだろうと
思わされました。
御言葉をどのように捉えるか、
本当の意味で神を恐れているか。
ここにおいて信仰が試されると
学ぶことができました。
キリストの体に属するものとして、
これからも祈り励まし合えたらと思います。
0 件のコメント :
コメントを投稿