熊本北聖書キリスト教会

熊本北聖書キリスト教会

2017年7月30日日曜日

『おとめマリヤより生まれ』久保田 周太郎 先生

2017年7月30日 第5主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:ガラテヤ人への手紙4章1~7節
説教主題:『おとめマリヤより生まれ』
招詞:ガラテヤ人への手紙4章6節
神は『アバ、父』と呼ぶ、
御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
教会学校
聖書のお話:『ザアカイ』
聖書箇所:ルカの福音書19章1~10節
暗唱聖句:ルカの福音書19章10節
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです

2017年7月27日木曜日

今日の青年会

7月最後の青年会。 
 
猛暑日が続いていて、 
とても暑いですね。 
 
よく毎週できているなぁと 
祈られていることに感謝しております。 
 
 
さて、いつものように 
今日もシュラッターの 
ヘブル人への手紙の講解を読んでいます。 
 
本日はヘブル8章~9章12節。 
 
前回の7章のテーマの続きで、 
完全なる祭司としてのイエス 
を見ていっています。 
 
 
2017年、この日本に生きる私たちは 
とてもじゃありませんが 
古代のイスラエルの、 
モーセの律法の規定が 
生活に密着していたことが 
なかなかイメージ出来ません。 
 
出エジプト記も、レビ記も、 
文字以上でもそれ以下でもない 
といった付き合い方をしてしましますが、 
当時は、それが生活の中心でした。 
 
 
一方で、こうして聖書として 
旧約・新約とまとめあげられ 
日常的に読めるようになっている今、 
それらがどのような関係にあるのか 
どれだけ理解しているでしょうか? 
 
「旧約」とは、文字どおり古い契約。 
「新約」とは、新しい契約。 
 
何が新しく、何が古いのか。 
 
聖書を手に取った瞬間に 
投げかけられるはずの問いが、 
ずっと足元にあるはずなのですが 
あまり気にもとめずに聖書を流し読み 
する傾向があるのではないかと思います。 
 
 
ヘブル書は、この旧約と新約の関係性を 
非常に明瞭に解き明かしています。 
 
 
イエスが、私たちのために死なれ、 
蘇られたこと。 
 
その神学的な土台となる、 
格調高い霊的な記述によって 
明らかにしています。 
 
 
 
「イエス様は私たちの罪のために死なれ、 
蘇られた」という信仰告白は、 
確かにその通りで間違ないのですが、 
 
多くの私たちの現実においては、 
どうもその認識が深められないまま、 
言葉だけがなぞられるにとどまっている感じがします。 
 
 
ヘブル書の言葉を借りれば、 
信仰的に幼いままで 
年数から言えば教師になってもおかしくない 
のに、まだ固い食物が食べれない状態。 
 
甘いミルクばかりを飲んで、 
しかも一向に成長しようとしない。 
 
そのような姿を彷彿とさせます。 
 
 
 
イエスの死と復活の霊的な意味、 
イエスが祭司であることの意味。 
 
その辺りを非常に詳しく記しているのが、 
このヘブル書であり、 
神学的に非常に重要な書物です。 
 
 
また、古い契約がなぜ古く不完全であるか、 
また、イエスの到来において何が成就され、新しい契約がもたらされ、 
天の聖所において大祭司の職を担う 
イエスによって私たちは 
いかに神のみもとに引き寄せられたか。 
 
神と私たちとの関係を修復された、 
イエスの大祭司としての姿が 
このヘブル書において 
徹底的に解明されています。 
 
 
 
正直、シュラッターの詳解を読むだけで 
かなり骨折れるとこで、 
簡単には吸収できるものではありません。 
 
ですが、その格調高い表現の一つ一つに 
これまでザルに水を注ぐように 
読んでいたヘブル書の隠された霊的事実に 
目を開かせられたような思いです。 
 
 
 
ひとところに集まり、 
難解な書物を読みあわせているだけですが 
少しずつ心が耕されている気がします。 
 
 
 
いつもお祈りありがとうございます。 

2017年7月23日日曜日

『ヨルダン川の東と西で』渡辺 英治 先生

2017年7月23日 第4主日礼拝
礼拝説教:渡辺 英治  先生
聖書箇所:ヨシュア記22章1~9, 33~34節
説教主題:『ヨルダン川の東と西で』
招詞:ヨシュア記22章34節
それでルベン族とガド族は、その祭壇を「まことにこれは、
私たちの間で、主が神であるという証拠だ」と呼んだ。
教会学校
聖書のお話:『ラザロの復活』
聖書箇所:ヨハネの福音書11章1~46節
暗唱聖句:ヨハネの福音書11章25節
私は、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。


2017年7月21日金曜日

今日の青年会

今日の青年会。 
 
九州北部もやっとのことで梅雨明け。 
(熊本市内は北部、らしいです..) 
 
これからもっと夏らしい暑さが 
本格化していきますね。 
 
今日の聖書の学びも 
かなりアツくなっておりました。 
 
 
 
シュラッターのヘブル書 講解、 
今日は7章、 
「完全なる祭司イエス」でした。 
 
 
律法に定められた祭司、レビ人と 
神の御子イエスとの比較が 
今回のテーマです。 
 
罪人でもある人間の祭司と、 
一切の汚れない神の御子とは 
比べるまでもないのですが、 
いかにイエスが完全な祭司であり、 
また、旧約の律法が不完全であるか 
7章から読み取ることができます。 
 
 
肉的なものを規定し、 
形式以上のものを与えられない 
旧約の律法には、 
いのちに至らせる力がないこと。 
 
一方で、 
イエスはいのちそのものであり、 
神の御子として力を持たれていること。 
 
 
この比較が、 
旧約の律法が定める祭司と 
神による誓いによって立てられた、 
大祭司イエスとの違いを 
際立たせています。 
 
 
7章にはことあるごとに「メルキゼデク」という大祭司が登場しますが、 
詩篇110:4の、神の誓いの言葉は 
キリストがメルキゼデクの位に等しい 
大祭司としてたてられるという預言です。 
 
 
ところで、この神の誓いの言葉にある 
「メルキゼデク」とは 
一体誰なのか?何者なのか? 
 
 
創世記には神から直接祝福の約束を受けた 
あのアブラハムを祝福し、 
アブラハムから捧げ物を受け取った 
義の王、平和の王として描かれています。 
 
 
ここでは出自も、その他何も情報はなく、 
ただ永遠に神の前に立つ大祭司として 
描かれているわけですが、 
だからこそ、肉的な事柄を規定する 
律法以上の存在として君臨します。 
 
 
神の御子を原型とした祭司として、 
メルキゼデクはレビよりも上位に 
位置付けられるわけです。 
 
 
 
そしてキリストが、 
いかに正当な祭司であり 
地上のどの祭司よりも 
祭司職を全うすることができるか、 
私たちにもっとも必要な 
神の御前に価値ある犠牲を捧げられるかを 
改めて確認させられます。 
 
 
———————————————————— 
 
[この祭司を見つめる時、私たちの罪のためこの契約を疑うよう私たちが動かされることは、決してありえない。なぜなら、もし私たちが、不信仰と不真実から契約を見出し、そこなってしまっても、この祭司は、神の契約による和解の行為によって私たちを支え、私たちを清めることにより、その賜物を私たちに与えるからである。旧約聖書の祭司もまた、契約の保証人であった。しかし、新しい、より高い祭司[キリスト]は、より良い契約に基づいてこられる。彼によって、すべては新しくなる。律法は変えられ、古い契約は、新しい契約にとって代わる。] 
 
———————————————————— 
 
 
神の元へとつなぐ祭司が、 
私たちには絶対的に必要なのですが、 
そのことにすら自覚できないのが 
私たちの現実。 
 
ですが、神の目から見て 
罪のとりなしてが必要なのは明らかで、 
キリストが必要なのは 
私たちの意思に関係ありません。 
 
キリストがいなければ、 
誰もとりなしてはおらず、 
神への反逆、罪は永遠に消えません。 
 
 
旧約の律法では、 
一時的な和解の犠牲を 
律法に定められた祭司が捧げましたが、 
イエスが現れたことによって 
それらは完全に新しい契約に 
とって代わられました。 
 
私たちの信仰は、 
イエスの十字架と復活という 
祭司的な働きそのものにかかっていて、 
イエスを通してのみ神の御前にたてる 
というものです。 
 
 
どれほどまでに 
キリストが私たちに近づき、 
弱さを担い、神にとりなしをして 
希望を私たちに与えておられるか。 
 
どれほど愛され、私たちは 
キリストによる犠牲によって 
キリストのものとなっているのか。 
 
 
キリストの犠牲は、 
永遠に変わりない新鮮さをもって 
今を生きる私たちにも 
いつまでも神の御前に有効な 
尊い犠牲として輝いています。 
 
 
 
神ご自身の誓いによって 
永遠の大祭司としてたてられた 
イエス・キリストが 
どれほど素晴らしい完全な祭司であるか、 
私たちにどうしても必要であるのか、 
深々と味わい直すことができました。 
 
 
8~10章と、まだまだ 
イエスの祭司としての完全性が続きます。 



2017年7月16日日曜日

『使徒ペテロの説教』久保田 周太郎 先生

2017年7月16日 第3主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:使徒の働き2章14~21節
説教主題:『使徒ペテロの説教』
招詞:使徒の働き2章21節
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。
教会学校
聖書のお話:『罪を赦された女』
聖書箇所:ヨハネの福音書8章1~11節
暗唱聖句:ヨハネの福音書8章11節
わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。
今からは決して罪を犯してはなりません。




2017年7月13日木曜日

今日の青年会。

今日の青年会。 
 
一気に真夏の猛暑で、 
かなり暑い日となってました。 
 
また、シュラッターの解説をもとに 
ヘブル書を読み進めています。 
 
 
今日は前回、 
「怠惰な者に対する裁きの言葉」 
の続き、ヘブル6章4~20節でした。 
 
 
 
キリストの福音を知ってなお、 
キリストを拒絶する者には 
もはや何も救いの手立てが残っておらず 
キリストを知る以前の状態よりも 
ひどい結末が待っている、、、 
 
という警告が発せられています。 
 
 
この警告を私たちは 
あまりにも軽く見ているのではないか。 
 
自分はもう何があっても安全で、 
どんなことがあっても堕落はないし、 
仮にそうなったとしても 
神様は赦してくださる。 
 
・・・と都合よく 
自己弁護する傾向があると思うのです。 
 
 
いつも自分だけは特別だと、 
神の目にどうであるかよりも 
自分の基準で自分に合格をだす傾向。 
 
 
そのような心の隙間に向けて 
この警告が向けられているのだと思います。 
 
 
ヘブル書は、ユダヤ人キリスト者に向けて 
書かれたものですが、 
私たちに置き換えれば、 
毎週教会に出席している 
クリスチャンに向けられているようなもの。 
 
 
キリストの福音に一度も触れたことのない、 
信仰をもっていない人に向けられた 
警告ではなく、 
キリスト者に向けられた警告。 
 
 
この意味は想像以上に大きいでしょう。 
 
 
 
神は愛だから、とだけかざして 
自己弁護する私たちは 
神は義なる裁き主である方でもあることを 
どこか忘れてしまいがちです。 
 
 
どのようなキリスト者であっても、 
生きている限りは 
私たちのために死なれたキリストから離れ、 
もう一度十字架につけるような 
拒絶に道に陥る危険があるという警告。 
 
 
まさかこの自分だけは違うだろうという 
なんの根拠もない憶測と過信を、 
私たちは改めるべきだと思わされます。 
 
 
———————————————————— 
 
[この手紙は、私たちが福音を受け入れ、知ったのちに、私たちの中に起こるイエスに対する反抗について語っている。私たちはふたたびイエスから離れ、私を捕えて下さる御手からまたもやずり落ちるのである。] 
 
———————————————————— 
 
 
 
また、信仰と行いが表裏一体であることを 
この箇所から深く味わうことができました。 
 
ヘブル書は、信仰を強調する書だと 
どこか思い込みがありましたが、 
信仰も行いも、「どちらか」だけでは 
成立することができません。 
 
 
———————————————————— 
 
[あなたがたは怠けないで、かえって信仰と忍耐によって約束を受けつづ人々にならう者となるべきである。この手紙はこのように願っている、「あなたがたがかつて示した熱心を、減らすことなく、あなたがたの中に持ちつづけなさい。ゆるめてはならない!もしあともどりするなら、あなたがたを死んだ者として永久に葬る、あの危険に近づくことになる。ただ単に愛を消さないだけでなく、減らしてはならない。それがあなたがたの安全につながる。その時のみ、あなたがたは完全に希望することができる。 
 
・・ 
 
[私たちが神の召しによる奉仕を熱心に、忠実に続けるならば、この道を歩み続けるごとに、希望が生き生きとしてくる。信仰生活は、私たちに試みだけでなく吟味をももたらすことを、私たちは経験する。その時、私たちはまた信仰を固くもちつづけ、信じ、忍耐して待つことができ、神に信頼する教会から離れない。そのような教会はそれゆえ、信頼し待ち望んでも恥に終わることがない、かえって約束の賜物を受け継ぐ者とされるであろう。] 
 
———————————————————— 
 
 
この手紙の警告は、 
絶対にゆるぎようのない神への希望を 
掴んで離さないためにあります。 
 
神からの完全な救いの約束は、 
私たちを完璧に救うことができますが 
それを受け止めるも拒絶するも、 
実は私たちの手に委ねられています。 
 
神が救うことができる・できない、 
というのが問題ではなく、 
私たちが受け取るかどうかが問題なのです。 
 
 
それは、人間には 
神のご計画により「自由」が与えられ、 
神に従うも、背くも、 
その「自由」にゆだねられているわけです。 
 
この「自由」ゆえに、 
どんな信仰者にも堕落への道が開かれ、 
キリストから離れる危険性があるわけです。 
 
 
私たちに与えられている「自由」を、 
神の召しに誠実に応答する奉仕に用いるか、 
神の御言葉に耳をふさぐために用いるか。 
 
非常に大きな責任が与えられています。 
 
 
言うまでもなく、 
この「自由」を、私たちは 
希望をつかむために用い、 
神を心から喜び、賛美するために用い、 
いつまでもキリストから離れることなく、 
主を賛美し、主のわざに励むために 
用いたいと願うばかりです。


2017年7月9日日曜日

『あわれみの御手』久保田 周太郎 先生

2017年7月9日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:ルカの福音書5章12~16節
説教主題:『あわれみの御手』
招詞:ルカの福音書5章12節
主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。
教会学校
聖書のお話:『中風の人を癒す』
聖書箇所:ルカの福音書5章17~26節
暗唱聖句:ルカの福音書5章20節
彼らの信仰を見て、イエスは
「友よ。あなたの罪は赦されました。」


2017年7月7日金曜日

今日の青年会

今日の青年会。 
 
いつものように 
シュラッターの『新約聖書講解シリーズ』   
ヘブル人への手紙を読んでいます。   
   
今日は前回のつづき、   
5章11節~6章3節でした。   
  
「怠惰な者に対する裁きの言葉」  
  
です。  
  
タイトルそのものが、 
なにやら厳しい内容を連想させますが、 
以下のみことばを指しているのでしょう。 
 
———————————————————— 
 
ヘブル5:12 
あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。 
 
———————————————————— 
 
信仰生活に入って年数を重ねても、 
一向に成長しない、学ぼうとしない、 
前進すること拒否する、 
そのような霊的な姿勢を「怠惰」と 
指しているのだと思いますが、 
誰もが程度の差はあれ 
思い当たる節があるのではないでしょうか。 
 
自分で自分に対して合格点をだして、 
これくらいでいい、と歩みを止める。 
 
神の基準にはどのみち達せないのだから、 
これでいい、という態度。 
 
人間の行いによって 
救いが決まるわけではないし、 
信じるだけでいいのだから、 
何をそこまで学ぶ必要があるのか。 
 
 
・・・と、 
聖書が示す「完成」に対して 
私たちは知らず知らずのうちに 
拒否してしまう傾向があります。 
 
大なり小なり現状維持に努め、 
それが正しいことだと疑わない。 
 
 
今日の箇所は、 
そのような私たちの霊的怠慢に対して 
真っ向から叱責します。 
 
 
———————————————————— 
 
[非難はむしろ、依然として教師を必要とするほど、学ぶことを快く思わない心に向けられている、また自ら前進せず、いかなる静止も後退もあってはならない時に、たえず突き進んで行くべき神の道に歩みを進めようとしない腰の重さに向けられている。] 
 
———————————————————— 
 
 
みことばには基礎的なものと、 
さらに進んだ内容とには違いがあり、 
どのみことばも一様に 
同列に扱えるものではありません。 
 
神との交わりの初歩に影響を与えるものと、 
初歩に続く神との交わりを 
さらに豊かに、活発に 
実りあるものにするものとは 
やはり違うわけです。 
 
 
「乳」と表現される 
初歩的なみことばについてですが、 
乳児が必要とするからといって 
決してあなどられるものではありません。 
 
 
この手紙の著者が非難しているように、 
長く信仰生活に入っていながら 
霊的成長の歩みを止めている者は、 
いつまでも「乳」にとどまるだけで、 
一向に吸収せず自分のものとしていません。 
 
初歩的なみことばが 
完全に自分の内的所有となっていないため、 
どんなに年数がたっても 
いつまでも教師を必要とする始末。 
 
読者をそのように非難するわけです。 
 
 
それでは「成長」とは何か、 
私たちは何によって「成長」するのか。 
また、なぜ「成長」しなければならないか。 
 
 
当然このような問いが浮かび上がります。 
 
 
// 
 
 
御言葉への理解力が乏しい 
ミルクしか消化できない霊的幼子は、 
その理解力の乏しさのために 
行為にその弱さが現れます。 
 
罪ある私たちがキリストによって贖われ、 
神とキリストとを証しする歩みに召され 
奉仕へと招かれていますが、 
その奉仕がまったくできないわけです。 
 
キリストの十字架と復活という、 
どこまでも広く深く大きな神の愛に 
無感覚で、浅い理解にとどまる限り、 
福音を現す力に乏しいままなのです。 
 
 
 
霊的な意味での「成長」とは、 
神の目に正しいか否かを認識することですが 
それは御言葉によって養われる以外に 
達せられません。 
 
 
善悪の区別を学ぶための尺度として 
御言葉が与えられていますが、 
真理に服従する訓練を通してのみ、 
私たちは「成長」することができるのです。 
 
 
いつまでもミルクを必要とし 
固い食物を消化できない人は、 
御言葉による訓練から逃げ続けていて、 
しっかりと吸収しないでいるわけです。 
 
そしてまた私たちは 
成長に不可欠なミルクすら捨ててしまい、 
神の声を聞いたと思い込みながら 
自分勝手な思いに従う傾向すらあります。 
 
 
 
このようにこの手紙では、いつまでも 
「乳」を必要としている者たちを 
非難しているわけですが、 
嘆きに留まっているわけではありません。 
 
むしろ、完成に向けて 
成長していこうではないかと 
激励しています。 
 
キリストの身丈にまで成長するようにと、 
キリストの姿という「完成」に向けて 
前進するように 
神にある善悪を区別できるように 
心を訓練するようにと強く勧めるわけです。 
 
 
 
// 
 
 
ここで再三述べられる「乳」、 
初歩的な教えとは、 
 
悔い改めと信仰、 
洗礼と按手、 
復活と永遠の裁き、のことです。 
 
(「死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばき」 
(ヘブル6:1-2) 
 
 
それらの教えは、 
一度学んだらそれで終わりというものでなく 
むしろいつまでも土台として据えられる、 
骨格のような支えとなるもので、決して 
ないがしろにされるべきもではありません。 
 
 
私たちが吸収すべき御言葉は 
ここでは「乳」と表現されてはいますが、 
内的生活の初歩に人が必要であり、 
私たちの揺るぐことのない土台、 
さらに豊かな神の御言葉の豊かさに 
向かって進むための足がかりであって、 
繰り返し立ち返るべき、高価な食べ物です。 
 
 
このようなしっかりした基礎が 
据えられているからこそ、 
私たちはもっと高いところへと進むよう 
招かれているわけです。 
 
 
キリストの身丈への成長という目標は 
圧倒されるほど高く、想像を超えていますが 
キリストの十字架と復活という 
あまりに大きな犠牲と、神の愛の深さとを 
一生をかけて理解していくこと。 
 
このキリスト者の果てなき道を 
ともに歩んでいこうという励ましこそ、 
この手紙の意図・目的です。 
 
 
 
学びを拒否する霊的怠慢な私たちにこそ 
生きて働く神の御言葉は必要ですから、 
御言葉という真理に服従する訓練を通して 
成長への歩みを続けたいと、 
改めて思わされます。 



2017年7月2日日曜日

『アブラハムの弱さ』久保田 周太郎 先生

2017年7月2日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎  先生
聖書箇所:創世記12章10~20節 
説教主題:『アブラハムの弱さ』
招詞:テモテへの手紙第2 2章13節
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。
彼にはご自身を否むことができないからである。
教会学校
聖書のお話:『ニコデモの訪問』
聖書箇所:ヨハネの福音書3章1~21節
暗唱聖句:ヨハネの福音書3章3節
まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。