今日の青年会。
一気に真夏の猛暑で、
かなり暑い日となってました。
また、シュラッターの解説をもとに
ヘブル書を読み進めています。
今日は前回、
「怠惰な者に対する裁きの言葉」
の続き、ヘブル6章4~20節でした。
キリストの福音を知ってなお、
キリストを拒絶する者には
もはや何も救いの手立てが残っておらず
キリストを知る以前の状態よりも
ひどい結末が待っている、、、
という警告が発せられています。
この警告を私たちは
あまりにも軽く見ているのではないか。
自分はもう何があっても安全で、
どんなことがあっても堕落はないし、
仮にそうなったとしても
神様は赦してくださる。
・・・と都合よく
自己弁護する傾向があると思うのです。
いつも自分だけは特別だと、
神の目にどうであるかよりも
自分の基準で自分に合格をだす傾向。
そのような心の隙間に向けて
この警告が向けられているのだと思います。
ヘブル書は、ユダヤ人キリスト者に向けて
書かれたものですが、
私たちに置き換えれば、
毎週教会に出席している
クリスチャンに向けられているようなもの。
キリストの福音に一度も触れたことのない、
信仰をもっていない人に向けられた
警告ではなく、
キリスト者に向けられた警告。
この意味は想像以上に大きいでしょう。
神は愛だから、とだけかざして
自己弁護する私たちは
神は義なる裁き主である方でもあることを
どこか忘れてしまいがちです。
どのようなキリスト者であっても、
生きている限りは
私たちのために死なれたキリストから離れ、
もう一度十字架につけるような
拒絶に道に陥る危険があるという警告。
まさかこの自分だけは違うだろうという
なんの根拠もない憶測と過信を、
私たちは改めるべきだと思わされます。
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[この手紙は、私たちが福音を受け入れ、知ったのちに、私たちの中に起こるイエスに対する反抗について語っている。私たちはふたたびイエスから離れ、私を捕えて下さる御手からまたもやずり落ちるのである。]
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また、信仰と行いが表裏一体であることを
この箇所から深く味わうことができました。
ヘブル書は、信仰を強調する書だと
どこか思い込みがありましたが、
信仰も行いも、「どちらか」だけでは
成立することができません。
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[あなたがたは怠けないで、かえって信仰と忍耐によって約束を受けつづ人々にならう者となるべきである。この手紙はこのように願っている、「あなたがたがかつて示した熱心を、減らすことなく、あなたがたの中に持ちつづけなさい。ゆるめてはならない!もしあともどりするなら、あなたがたを死んだ者として永久に葬る、あの危険に近づくことになる。ただ単に愛を消さないだけでなく、減らしてはならない。それがあなたがたの安全につながる。その時のみ、あなたがたは完全に希望することができる。
・・
[私たちが神の召しによる奉仕を熱心に、忠実に続けるならば、この道を歩み続けるごとに、希望が生き生きとしてくる。信仰生活は、私たちに試みだけでなく吟味をももたらすことを、私たちは経験する。その時、私たちはまた信仰を固くもちつづけ、信じ、忍耐して待つことができ、神に信頼する教会から離れない。そのような教会はそれゆえ、信頼し待ち望んでも恥に終わることがない、かえって約束の賜物を受け継ぐ者とされるであろう。]
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この手紙の警告は、
絶対にゆるぎようのない神への希望を
掴んで離さないためにあります。
神からの完全な救いの約束は、
私たちを完璧に救うことができますが
それを受け止めるも拒絶するも、
実は私たちの手に委ねられています。
神が救うことができる・できない、
というのが問題ではなく、
私たちが受け取るかどうかが問題なのです。
それは、人間には
神のご計画により「自由」が与えられ、
神に従うも、背くも、
その「自由」にゆだねられているわけです。
この「自由」ゆえに、
どんな信仰者にも堕落への道が開かれ、
キリストから離れる危険性があるわけです。
私たちに与えられている「自由」を、
神の召しに誠実に応答する奉仕に用いるか、
神の御言葉に耳をふさぐために用いるか。
非常に大きな責任が与えられています。
言うまでもなく、
この「自由」を、私たちは
希望をつかむために用い、
神を心から喜び、賛美するために用い、
いつまでもキリストから離れることなく、
主を賛美し、主のわざに励むために
用いたいと願うばかりです。