今日の青年会。
いつものように
シュラッターの『新約聖書講解シリーズ』
ヘブル人への手紙を読んでいます。
今日は前回のつづき、
5章11節~6章3節でした。
「怠惰な者に対する裁きの言葉」
です。
タイトルそのものが、
なにやら厳しい内容を連想させますが、
以下のみことばを指しているのでしょう。
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ヘブル5:12
あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
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信仰生活に入って年数を重ねても、
一向に成長しない、学ぼうとしない、
前進すること拒否する、
そのような霊的な姿勢を「怠惰」と
指しているのだと思いますが、
誰もが程度の差はあれ
思い当たる節があるのではないでしょうか。
自分で自分に対して合格点をだして、
これくらいでいい、と歩みを止める。
神の基準にはどのみち達せないのだから、
これでいい、という態度。
人間の行いによって
救いが決まるわけではないし、
信じるだけでいいのだから、
何をそこまで学ぶ必要があるのか。
・・・と、
聖書が示す「完成」に対して
私たちは知らず知らずのうちに
拒否してしまう傾向があります。
大なり小なり現状維持に努め、
それが正しいことだと疑わない。
今日の箇所は、
そのような私たちの霊的怠慢に対して
真っ向から叱責します。
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[非難はむしろ、依然として教師を必要とするほど、学ぶことを快く思わない心に向けられている、また自ら前進せず、いかなる静止も後退もあってはならない時に、たえず突き進んで行くべき神の道に歩みを進めようとしない腰の重さに向けられている。]
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みことばには基礎的なものと、
さらに進んだ内容とには違いがあり、
どのみことばも一様に
同列に扱えるものではありません。
神との交わりの初歩に影響を与えるものと、
初歩に続く神との交わりを
さらに豊かに、活発に
実りあるものにするものとは
やはり違うわけです。
「乳」と表現される
初歩的なみことばについてですが、
乳児が必要とするからといって
決してあなどられるものではありません。
この手紙の著者が非難しているように、
長く信仰生活に入っていながら
霊的成長の歩みを止めている者は、
いつまでも「乳」にとどまるだけで、
一向に吸収せず自分のものとしていません。
初歩的なみことばが
完全に自分の内的所有となっていないため、
どんなに年数がたっても
いつまでも教師を必要とする始末。
読者をそのように非難するわけです。
それでは「成長」とは何か、
私たちは何によって「成長」するのか。
また、なぜ「成長」しなければならないか。
当然このような問いが浮かび上がります。
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御言葉への理解力が乏しい
ミルクしか消化できない霊的幼子は、
その理解力の乏しさのために
行為にその弱さが現れます。
罪ある私たちがキリストによって贖われ、
神とキリストとを証しする歩みに召され
奉仕へと招かれていますが、
その奉仕がまったくできないわけです。
キリストの十字架と復活という、
どこまでも広く深く大きな神の愛に
無感覚で、浅い理解にとどまる限り、
福音を現す力に乏しいままなのです。
霊的な意味での「成長」とは、
神の目に正しいか否かを認識することですが
それは御言葉によって養われる以外に
達せられません。
善悪の区別を学ぶための尺度として
御言葉が与えられていますが、
真理に服従する訓練を通してのみ、
私たちは「成長」することができるのです。
いつまでもミルクを必要とし
固い食物を消化できない人は、
御言葉による訓練から逃げ続けていて、
しっかりと吸収しないでいるわけです。
そしてまた私たちは
成長に不可欠なミルクすら捨ててしまい、
神の声を聞いたと思い込みながら
自分勝手な思いに従う傾向すらあります。
このようにこの手紙では、いつまでも
「乳」を必要としている者たちを
非難しているわけですが、
嘆きに留まっているわけではありません。
むしろ、完成に向けて
成長していこうではないかと
激励しています。
キリストの身丈にまで成長するようにと、
キリストの姿という「完成」に向けて
前進するように
神にある善悪を区別できるように
心を訓練するようにと強く勧めるわけです。
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ここで再三述べられる「乳」、
初歩的な教えとは、
悔い改めと信仰、
洗礼と按手、
復活と永遠の裁き、のことです。
(「死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばき」
(ヘブル6:1-2)
それらの教えは、
一度学んだらそれで終わりというものでなく
むしろいつまでも土台として据えられる、
骨格のような支えとなるもので、決して
ないがしろにされるべきもではありません。
私たちが吸収すべき御言葉は
ここでは「乳」と表現されてはいますが、
内的生活の初歩に人が必要であり、
私たちの揺るぐことのない土台、
さらに豊かな神の御言葉の豊かさに
向かって進むための足がかりであって、
繰り返し立ち返るべき、高価な食べ物です。
このようなしっかりした基礎が
据えられているからこそ、
私たちはもっと高いところへと進むよう
招かれているわけです。
キリストの身丈への成長という目標は
圧倒されるほど高く、想像を超えていますが
キリストの十字架と復活という
あまりに大きな犠牲と、神の愛の深さとを
一生をかけて理解していくこと。
このキリスト者の果てなき道を
ともに歩んでいこうという励ましこそ、
この手紙の意図・目的です。
学びを拒否する霊的怠慢な私たちにこそ
生きて働く神の御言葉は必要ですから、
御言葉という真理に服従する訓練を通して
成長への歩みを続けたいと、
改めて思わされます。
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