今日の青年会。
九州北部もやっとのことで梅雨明け。
(熊本市内は北部、らしいです..)
これからもっと夏らしい暑さが
本格化していきますね。
今日の聖書の学びも
かなりアツくなっておりました。
シュラッターのヘブル書 講解、
今日は7章、
「完全なる祭司イエス」でした。
律法に定められた祭司、レビ人と
神の御子イエスとの比較が
今回のテーマです。
罪人でもある人間の祭司と、
一切の汚れない神の御子とは
比べるまでもないのですが、
いかにイエスが完全な祭司であり、
また、旧約の律法が不完全であるか
7章から読み取ることができます。
肉的なものを規定し、
形式以上のものを与えられない
旧約の律法には、
いのちに至らせる力がないこと。
一方で、
イエスはいのちそのものであり、
神の御子として力を持たれていること。
この比較が、
旧約の律法が定める祭司と
神による誓いによって立てられた、
大祭司イエスとの違いを
際立たせています。
7章にはことあるごとに「メルキゼデク」という大祭司が登場しますが、
詩篇110:4の、神の誓いの言葉は
キリストがメルキゼデクの位に等しい
大祭司としてたてられるという預言です。
ところで、この神の誓いの言葉にある
「メルキゼデク」とは
一体誰なのか?何者なのか?
創世記には神から直接祝福の約束を受けた
あのアブラハムを祝福し、
アブラハムから捧げ物を受け取った
義の王、平和の王として描かれています。
ここでは出自も、その他何も情報はなく、
ただ永遠に神の前に立つ大祭司として
描かれているわけですが、
だからこそ、肉的な事柄を規定する
律法以上の存在として君臨します。
神の御子を原型とした祭司として、
メルキゼデクはレビよりも上位に
位置付けられるわけです。
そしてキリストが、
いかに正当な祭司であり
地上のどの祭司よりも
祭司職を全うすることができるか、
私たちにもっとも必要な
神の御前に価値ある犠牲を捧げられるかを
改めて確認させられます。
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[この祭司を見つめる時、私たちの罪のためこの契約を疑うよう私たちが動かされることは、決してありえない。なぜなら、もし私たちが、不信仰と不真実から契約を見出し、そこなってしまっても、この祭司は、神の契約による和解の行為によって私たちを支え、私たちを清めることにより、その賜物を私たちに与えるからである。旧約聖書の祭司もまた、契約の保証人であった。しかし、新しい、より高い祭司[キリスト]は、より良い契約に基づいてこられる。彼によって、すべては新しくなる。律法は変えられ、古い契約は、新しい契約にとって代わる。]
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神の元へとつなぐ祭司が、
私たちには絶対的に必要なのですが、
そのことにすら自覚できないのが
私たちの現実。
ですが、神の目から見て
罪のとりなしてが必要なのは明らかで、
キリストが必要なのは
私たちの意思に関係ありません。
キリストがいなければ、
誰もとりなしてはおらず、
神への反逆、罪は永遠に消えません。
旧約の律法では、
一時的な和解の犠牲を
律法に定められた祭司が捧げましたが、
イエスが現れたことによって
それらは完全に新しい契約に
とって代わられました。
私たちの信仰は、
イエスの十字架と復活という
祭司的な働きそのものにかかっていて、
イエスを通してのみ神の御前にたてる
というものです。
どれほどまでに
キリストが私たちに近づき、
弱さを担い、神にとりなしをして
希望を私たちに与えておられるか。
どれほど愛され、私たちは
キリストによる犠牲によって
キリストのものとなっているのか。
キリストの犠牲は、
永遠に変わりない新鮮さをもって
今を生きる私たちにも
いつまでも神の御前に有効な
尊い犠牲として輝いています。
神ご自身の誓いによって
永遠の大祭司としてたてられた
イエス・キリストが
どれほど素晴らしい完全な祭司であるか、
私たちにどうしても必要であるのか、
深々と味わい直すことができました。
8~10章と、まだまだ
イエスの祭司としての完全性が続きます。
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