7月最後の青年会。
猛暑日が続いていて、
とても暑いですね。
よく毎週できているなぁと
祈られていることに感謝しております。
さて、いつものように
今日もシュラッターの
ヘブル人への手紙の講解を読んでいます。
本日はヘブル8章~9章12節。
前回の7章のテーマの続きで、
完全なる祭司としてのイエス
を見ていっています。
2017年、この日本に生きる私たちは
とてもじゃありませんが
古代のイスラエルの、
モーセの律法の規定が
生活に密着していたことが
なかなかイメージ出来ません。
出エジプト記も、レビ記も、
文字以上でもそれ以下でもない
といった付き合い方をしてしましますが、
当時は、それが生活の中心でした。
一方で、こうして聖書として
旧約・新約とまとめあげられ
日常的に読めるようになっている今、
それらがどのような関係にあるのか
どれだけ理解しているでしょうか?
「旧約」とは、文字どおり古い契約。
「新約」とは、新しい契約。
何が新しく、何が古いのか。
聖書を手に取った瞬間に
投げかけられるはずの問いが、
ずっと足元にあるはずなのですが
あまり気にもとめずに聖書を流し読み
する傾向があるのではないかと思います。
ヘブル書は、この旧約と新約の関係性を
非常に明瞭に解き明かしています。
イエスが、私たちのために死なれ、
蘇られたこと。
その神学的な土台となる、
格調高い霊的な記述によって
明らかにしています。
「イエス様は私たちの罪のために死なれ、
蘇られた」という信仰告白は、
確かにその通りで間違ないのですが、
多くの私たちの現実においては、
どうもその認識が深められないまま、
言葉だけがなぞられるにとどまっている感じがします。
ヘブル書の言葉を借りれば、
信仰的に幼いままで
年数から言えば教師になってもおかしくない
のに、まだ固い食物が食べれない状態。
甘いミルクばかりを飲んで、
しかも一向に成長しようとしない。
そのような姿を彷彿とさせます。
イエスの死と復活の霊的な意味、
イエスが祭司であることの意味。
その辺りを非常に詳しく記しているのが、
このヘブル書であり、
神学的に非常に重要な書物です。
また、古い契約がなぜ古く不完全であるか、
また、イエスの到来において何が成就され、新しい契約がもたらされ、
天の聖所において大祭司の職を担う
イエスによって私たちは
いかに神のみもとに引き寄せられたか。
神と私たちとの関係を修復された、
イエスの大祭司としての姿が
このヘブル書において
徹底的に解明されています。
正直、シュラッターの詳解を読むだけで
かなり骨折れるとこで、
簡単には吸収できるものではありません。
ですが、その格調高い表現の一つ一つに
これまでザルに水を注ぐように
読んでいたヘブル書の隠された霊的事実に
目を開かせられたような思いです。
ひとところに集まり、
難解な書物を読みあわせているだけですが
少しずつ心が耕されている気がします。
いつもお祈りありがとうございます。
0 件のコメント :
コメントを投稿