熊本北聖書キリスト教会

熊本北聖書キリスト教会

2016年9月28日水曜日

今日の青年会

2016年9月27日(火)

毎週火曜日の聖研、今日も守られたことに感謝いたします。

ティモシー・ケラー、キャシー・ケラー共著の『結婚の意味』をもとに
結婚について学び分かち合いのひと時を持つことができました。


本日のテーマは「結婚を育てる力」です。


結婚をされている方、主にあって結ばれた夫婦ですが、
すれ違いぶつかり合うことはありませんか?
まだ結婚をされていない方、どうすれば互いに従い合う結婚生活が送れると思いますか?


今回は、その疑問を分かりやすく『結婚の意味』から学びとり、
聖書が、結婚生活を育むことについて、
どのように語っているかを読むことができました。


パウロは、エペソ人への手紙5章21節で
「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」と説いています。

これは、御霊に満たされた人の特徴の最後に挙げられています。
この「御霊に満たされた」とは、
プライドや自意識がなく、だから謙虚になり
他者に仕える姿勢が生まれているということです。

この21節の「御霊に満たされた」ことによって生まれる従順な姿勢をみて、初めて、結婚式でよく使われる 「妻たちよ」という妻と夫の義務へと視点が移ります。

・・・・

今回、この学び会を通して感じたことは、
夫婦の問題のほとんどが自己中心的な考えや思いが原因であるのだということです。

夫として、妻としてという基準。自分中心的な思いを土台とした「奉仕」は、
「奉仕」ではなくプライドなどから行われる打算や取引であること。

また、短気であったり、怒り、優しさの欠けた言葉、
自分がされた過去の不正や傷を根にに持ち続けること、
これは人間の自己中心的な性質から起こってしまうことです。

しかし、聖書は謙虚になり他者に仕えなさいと教えています。
言うまでもなく夫婦間でもそうです。

自己犠牲的な奉仕の延長線上に、
結婚生活における本当の幸せを感じることができます。

しかし、プライドを捨て自己を犠牲にし、
他人に仕えることはとても難しいことです。
聖書を読み、頭ではわかっていても、
実践するとなると言うほど簡単にはできません。

教えに従うためにやるんだとか、
誰々の手前、とか
誰々に言われたから、とか、
努力目標になった途端、どこかズレてしまうんですよね。
心からの喜びに満たされていない自分がいるわけです。

自然と、自発的に、
他者の喜びのために自分をひとまず横に置く行為。
相手の喜ぶことを自分の喜びとする行為。
そんな美しい姿に、人間は罪の性質をもったままなれません。


では、どうすればよいのでしょう。

それは福音(キリストの愛)によってのみ、可能なのです。
その福音を、キリストがどのような姿を示されたのか、
私たちに対してどれほど深い愛を抱かれたかを思い出すことです。

イエスさまは、
私たちが本来償うべき神に反逆する自己中心的な罪という性質を、
自らを捧げ犠牲にすることを通して、
私たちを完全に聖めてくださいました。

ご自身のすべてを捨ててまで、私たちの最善になるよう尽くす姿。
このことを常日頃思い起こさなければならないのです。

そして、このことに気づかせ、
神の愛を深く味わえるように促すのは、聖霊の働きです。

イエスさまが強調された聖霊の働きは、まさにこれです。
みことばを、福音を思い起こすように聖霊がしてくださるわけです。

自分のことばかりに意識が向けられ、
愛するはずの伴侶の小さな言動のあらを探し
不平不満を募らせてしまっている時の私たちには、
まさに聖霊の力が必要なのです。
福音の素晴らしさを忘れ、怒りに満たされ愛に欠乏している時こそ
聖霊に満たされる必要があるのです。

そうでなければ、
完全に自分を捨てて他者に仕え、愛し従うことなどできるでしょうか。
自分の思いと考えとを優先させ、相手を利用しようとしてしまう性質をもつ私たちが、
自分たちの努力において、本心から喜んですすんで相手に仕えることなど
到底できようがありません。

だから、聖霊に満たされなければ
互いに従い合い、仕え合うようにすすめられている
幸福な結婚生活は送れない、というわけです。


また、「キリストを恐れ尊ぶ」ことは
聖霊に満たされた状態でもあるのですが、
決して怖がり怯えることではありません。

特に旧約聖書に多く使用される「恐れる」という言葉には、
敬意や畏怖の響きがあり、
「圧倒されること、何かによって圧倒的に支配されている」という意味があります。

主を恐れるとは、まさに神さまの偉大さ、愛に、
驚き圧倒されるということです。
主がどれほど素晴らしいお方であるのか、
どれほどの愛を私たちに注いでおられるのか
自分自身の存在で味わい、感じ、圧倒され、ひれ伏すほかないという姿です。

この神の愛を起点として、初めて無私の愛を注げるようになるわけです。

パウロが、「キリストへの恐れから」互いに愛するようにと招いているのは、
ありとあらゆる恐れ、願望、必要に突き動かされて
結婚生活を始めてしまうのが私たちだからです。

神しか満たすことのできない空虚を
結婚生活によって埋めようと囚われるなら、
相手に仕える立場にさえつくことはできません。
その空虚は、どうあがいても人には満たせないからです。


キリストの愛を知り、キリストを恐れ尊ぶには、
聖霊の働きを待つしかありません。
だから、主は聖霊を求めるようにすすめられたのです。

また、常に神さまのことを考え、祈り、聖書を読み、
信仰の仲間たちと生き生きと信仰生活を送ることが不可欠です。


聖霊によって私たちは自己中心性に気づかされ、
福音の広さ深さを強く味わい、
主を恐れるへりくだった姿へと変えられ、
その喜びに包まれ互いに仕え合う幸福な結婚生活へと導かれていくわけです。


相手の喜びと自由を、自分の必要という祭壇の上で犠牲にしないための唯一の道は、
あなたの本当の恋人、究極の相手のもとに立ち返ることだとティモシー氏は教えてくださいました。

今回の学び、まだ結婚していない青年、結婚している夫婦、両方いましたが、
それぞれ、神さまの愛を知ること、
そして今日、集まったような信仰者同士の交わりが続けられ、
お互いに励ましあい、イエスさまの人生や教えに没頭し、神の似姿へ変えられることを願うひと時となりました。


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