毎週火曜の青年会。
今日も無事に開催できました!
いつもお祈りありがとうございます。
今日は『結婚の意味』第8章の前半。
セックスと結婚、というテーマです。
性に関しては、
家庭でも、教会でも、
肝心なところはほとんどオープンにされていないのではないでしょうか。
男と女に人は造られ、
そして私たちは必ずどちらかの性を生きているのにもかかわらず。
毎日、男として、女として
どちらかの性として歩んでいて
他人事にはなれない事柄なのに、です。
特に、セックスにまつわる誤解や疑問は
多感な青少年に対しては
信頼できるガイドが必要だと思うのですが、
身近にはあまりないのではないでしょうか。
家庭でも、教会でも。
自分にとってのガイドの存在もそうですが、
自分がガイドになれているかどうかという視点も大切ですよね。
....その、性にまつわるガイドに当たるのが、
今日の学びの箇所でした。
セックスについて聖書はどう語るか。
一般的には、
聖書=性に厳格、というイメージも流布していますが、
忠実に聖書を読めば、そのイメージは実は表面的なものに過ぎません。
神が、人を男と女に分けて創造されたという時点で、
神が祝福として性を創造された。
この理解が大事です。
そして、性が罪によって歪められてしまったため
性が汚らわしく感じられてしまうという罪の理解。
罪の影響を抜きに性に価値判断してしまってもいけないわけです。
また、セックスがどのような力があるのか、
無理解であることも有害です。
聖書は、セックスは
自分のすべてを捧げる相手としかしてはならない、
という立場をとっています。
感情的・人格的・社会的・経済的・法的、
すべての面において、二人の者が一人の人格として結ばれる相手、
結婚相手としてしか、性的関係は認めないのです。
それは
セックスが、結婚相手に対して、
自分のすべてを捧げるという
愛する意志の確認として定められているためです。
自分のすべてを懸けて捧げる意志もない相手と、
肉体だけ 交わろうとするのは、
霊的な視点が欠落しています。
人は、単なる物質や動物ではありません。
食欲と同じように性を扱ってはいけないわけです。
人格的な結合を促してしまう作用があるのがセックスであり、
自分のすべてを捧げる愛する意志の確認手段でもある、と理解すれば、
結婚関係においてしかセックスが認められないのは当然といえば当然。
自分のすべてを結び合わせる作用があるセックスを、
結婚関係以外で持とうとするから、
様々な面で歪みが生じるわけです。
なぜ結婚関係の中でしかセックスが認められないのか。
恋愛関係の延長線上の愛ある行為としてはダメなのか。
今日の学びでは、
かなり明快な回答が得られた気がします。
あなたにははっきりと聖書的理解にたった
性のガイドはいますか?
根拠をもって、
結婚外でセックスしてはいけないとアドバイスできますか?
...教会として、性を隠してしまうのではなく
きちんと正しい理解にたって語り合い、
また、相談の窓口になれるような 場をつくっていくというのは
非常に大事なテーマだと気づかされました。
残すところ、あと一回。
『結婚の意味』も大詰めです。
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