毎週火曜の青年会。
今日も無事に開催できました!
いつもお祈りありがとうございます。
今日は『ラディカル』の第3章。
「自分の力が尽きた時に始まる」でした。
前々回に学んでいたO.ハレスビーの『祈り』にあったように、
無力であることこそが、祈りだと改めて思わされます。
私たちは、自分たちの力を過大評価する一方で、
神様、聖霊の働きをどこか他人事のようにしているのではないでしょうか。
何をするにしても、
あれこれとできること、しなければならないこと、など
目標設定の段階から、神様をぬきにして考えてしまう癖があるように思うのです。
もちろん、私たちに与えられている賜物や時間やお金、立場や影響力、
すべてをなかったことにするわけではありません。
向かう方向に、神様を見ているか。
何かをする前に、神様を見上げているか。
今できそうなことだけをするのではなく、神様の働きを期待しているか。
こういうことだと思うんです。
私たちの手元にはさまざまなプランがあります。
教会生活においても、仕事においても、家庭においても、
様々な場面で、私たちはあぁしようこぅしようとプランがあるわけです。
それがありすぎて、神様に働いていただく余白がないのではないかと思うくらいです。
聖書を見れば、信仰の先人たちは、
例外なく神様が必要だと言わざるをえない状況に置かれていました。
無力のどん底に打ちのめされたのち、
主に求めるほかなく、呼び求め、そして答えを得ました。
いつも、そのようなプロセスを経て、最後には神様が褒め称えられてきました。
主の祈りにあるように、
主の御名があがめられるように、
私たちの今の持ち場で主が働かれるように祈りたいものです。
神様は、私たちの求める前に、一番必要なものを備えておられ、
今にも与えようと待っておられます。
私たちを励まし、導き、選ぶ道を示してくださる、聖霊を与えてくださるという約束を、
改めて噛み締めました。
今日もありがとうございます。
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