毎週火曜の青年会。
今日も無事に開催できました!
いつもお祈りありがとうございます。
今日は先週から始まった『ラディカル』第1章の後半。
私たちが今属している社会、文化は
福音と正反対の価値観に溢れていて、
私たちはそのことにあまり意識的ではないこと。
それゆえに、ぼんやりと何かを願うとき、
何かを求めるとき、人生を設計するとき、
気づけば福音的でない結果になることが多々あります。
また、聖書とは世界観・価値観がまったく異なるため、
少しでも自分の都合と折り合いがつかない箇所と出会ったとき、
メッセージで耳の痛いことを言われたとき、
私たちは「自分なり」に聖書(神のことば)を薄めて受け取ります。
このような危険が溢れていることを、改めて味わい直しました。
キリストがもし、この時代に肉体をもって
目の前に現れたとしたらどのように応答するか。
どのような反応をするか。考えたことはありますか?
肉体を持っているがゆえに、パリサイ人のように
自分が描いていたイメージと違うために
キリストに猛反発するのではないか。
結局のところ、
自分が理想とするイメージと反する何かと触れたとき、
私たちは拒絶するわけで、
それが神のことばであっても例外ではないということなのです。
それが、罪的な私たちの姿ではないでしょうか。
もちろん、時代も文化も違う旧約・新約の時代の形式を、
今の私たしたちにそのまま適用とすると無理が生じてしまうこともあるでしょう。
(全焼のいけにえを捧げたり、割礼を施したり、いろいろあります…)
だからこそ、「真理はあなたがたを自由にする」と語られた、
御霊を受けなければ、迷うわけです。
文化も社会も、刻一刻変化している中に私たちは生きているわけで、
その瞬間瞬間、判断しなければいけません。
そのよりどころはなんなのか。
それが聖霊である、ということ。
祈り続け、答えをいただこう、ということです。
みことばを薄めずに、
そのまま受け取るために、祈りたいものです。
『ラディカル』の問いかけは、本当に身にしみます。
この文化に浸りきった私たちに、本当の意味で福音的に生きないか?という誘いは、
かなり革新的で、強烈です。
…..どのような思いも、
神さまより優先することなく、
主の前にへりくだり、心が砕かれるよう、祈り続けていきます。
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