毎週火曜の青年会。
今日も無事に開催できました!
いつもお祈りありがとうございます。
今日は『ラディカル』の第4章。
「神の偉大な方法」でした。
たびたびこの著者が指摘していることですが、
私たちは本当に、自分勝手に聖書を読む傾向にあります。
ある箇所は、自分以外の誰かについて語られていると思い、
また別の箇所は、自分のためにこそ書かれている!と受け取る。
第4章では、特に、世界宣教についてイエスが語られたことの受け取り方について多く割かれていました。
私たちは、世界宣教に出かけていく者は、
特別な召しを受けた、自分以外の人と考えがちですが
そうではない、私たち福音を受け取った者は例外なく全員、
世界宣教に招かれています。
忠実に、誠実に聖書を読めばはっきりと分かるはずですが、
無意識に、反射的に、「そうはいっても流石に私にはそのような召しはない」と
はじめから耳を貸さないのが、現実ではないでしょうか。
確かに、今置かれている場での働きはあります。
自分の家族、友人、知人、職場の人。
自分の手の届くところにキリストの福音を広げるのをなおざりにしていながら、
どことも知らないアジアやアフリカなど、キリストの福音と縁のなさそうなところに行けばいい
というのも問題だと思います。
身近な人にこそ伝えるべく、現在遣わされているのに、
それすらせずに、遠くの見知らぬ土地でキリストの福音を伝えるなんて、本末転倒です。
とすれば、今日の学びはどこに落とし所があるのか。
「世界宣教」と聞いてすぐに彷彿とするイメージなど、
ある一定の固定された形式にとらわれるのではなく、
聖書に一貫して語られている、神様の視点を常に持つということ。
つまり、すべては神から始まり、神の栄光をあらわすために存在しているという、
万物の目的を見据えて、私たちも神の栄光をあらわすべく創造され、
今も生かされ、そのために福音を伝えるという意識を取り戻すということです。
福音を伝え、神の栄光をあらわすことが、
私たちの本来の生き方で、
本当の意味で、喜びと、充足感とに満ちた歩みなのでしょう。
神様にから祝福を受け、恵みによって生かされ、神様の栄光をあらわす生き方。
創造の目的にかなった歩みをして、満たされないわけがないのです。
さて、この、本来の生き方、神に栄光を帰すという生き方の実践が、
世界宣教であるというわけですが、
私たちはどれだけ真摯にこのメッセージを受け取っているのか、と問われています。
また、聖書のメッセージは「神は私たちを愛している」というだけの、
いわば片手落ちの内容にして、自己中心的に理解していないか自問させられます。
神が、ご自身の栄光をあらわされるために、
罪に落ちた私たちにキリストを送り、十字架につけられ、
神との関係を回復するようにされたということ。
そして、本来の創造の目的に再び生きれるようにされたということを思いたいものです。
神の栄光をあらわす、という私たちの存在理由をです。
どのような立場であれ、状況であれ、
神様の栄光をあらわすのが御心ですから、
そのように用いられるように、今置かれた場で委ね祈り続けたいと思います。
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