毎週火曜の青年会。
今日も無事に開催できました!
いつもお祈りありがとうございます。
今日は『ラディカル』の第7章。
「代案はない〜なぜ出て行くことは選択肢ではなく、緊急なのか〜」でした。
「代案」というのは、救いに至る道について
あれこれと多元論的に議論してしまうことに対して、発せられています。
人の生命について深く思い巡らし、福音に触れ、
死後はどうなるのかと一度でも考えたことがあれば、
今日の内容は心当たりのあるテーマかもしれません。
「福音に聞かずに死んだ人は、どうなるのか」
これは、教会やクリスチャンが一般的に受けやすい
外部からの問いかけでもあるかもしれません。
他にも、幼くして死んでしまった場合、
その子も罪に定められるの?
といった疑問もとめどもなく出てくると思います。
そういうどうしようもない事情があったのに、
神は容赦なく断罪するのか?
という感情的な抵抗感が多くの人に前提としてあるわけです。
この辺りの内容が、今日読んだ7章では
ローマ人への手紙をベースに深く掘り下げられていました。
ここで、人間が誰一人として例外なく神の前に有罪であること、
そのためにキリストが死んでよみがえられたこと、
つまり、救いの道が神から与えられたということを
改めて味わいました。
「すべての人は神を知っている」
という出だしに述べられる前提部分から
早くも理解に苦しむのですが、
私たち人間は、全員、神を「知って」いながら、
神を拒絶して、罪ある存在として生きていると述べられています。
そのため、例外なく、人は全員
神を拒絶しているため有罪判決を受ける…。
こう明言されています。
そして人間側からは、何一つ神の赦しを得る方法がないため、
そこには絶望しかありません。
だから神がキリストを贈ってくださった。
….と、すでに福音を受け取っている私たちは、
このあたりの罪の話、救いの話は
耳にタコができるくらい聞いていますので
ここで多くを述べる必要はないと思いますが、
続けて著者はかなり厳しいことを指摘します。
私たちのは多くは、知的普遍論者か、
実際的な普遍論者である、と。
…今の時代、考え方や意見や趣味など個々人の違いが尊重され、
それぞれが同等に正当に扱われるべきであるという価値観が、
教会内にも文化として入り込んできています。
信仰が好みの問題に貶められているのが
現代の文化的流れであることに、無自覚的であること。
すべての宗教は基本的には同じだとする普遍主義的な考え方が
教会内にも入り込んでいる、ということ。
また、実際的な普遍論者というのは
積極的には福音を携えて外に出て行かない
ほとんどのクリスチャンのことです。
周りの人がキリストの福音を知らなくても、
我関せずという態度をとっているクリスチャンと聞いて、
ドキっとしない人はいないでしょう。
自分こそそうだ、と。
…この『ラディカル』という一冊の本が
始めから繰り返していることですが、
この本は、福音を携えて出て行くように呼びかけています。
何気なく教会に参加し、メッセージを聞き、賛美をし、
毎日聖書を読んでいるだけで、外に出て行かない私たちに向けられた本です。
この章では特に、
世界中の数十億もの人がキリストの福音を聞くことができないでいるのは、
私たちが福音を伝えに出て行かないからだと、
徹底的に私たちの責任の重さと、現実と、
神の呼びかけの明瞭さを浮き彫りにしています。
…神のプランは明確です。
私たちを通して、福音を全世界に伝えさせ、神の国を広げていくこと。
働き人を起こして福音を伝えるという手段を神は採用しています。
誰かがやってくれるだろうと人任せにしている私たちにこそ、
神は呼びかけ、神の働きに招いておられるというのです。
これこそ本当の生きがい、生きる意味だよ、と。
これが声高に聖書が叫び続けている宣教令ではないでしょうか。
…キリストの福音を聞いたことがない人は、どうなるのか。
例外なく有罪判決が下る人類の、
唯一の望みである福音が聞けない人はどうなるのか。
…これに対して神はどうするのか、
と私たちは知りようがないことですが、
私たちは、そのような人たちに福音を伝えるという
重大な働きが任されています。
他人事では済まないよ、と迫る内容で、
正直「どうしよう」と思ってしまう重みです。
どうしようかなー、生活があるしなー、
と選択肢の一つにしてしまっている私たちに、
「選択の余地はない、これは緊急事態だ」
と言われているようでした。
..教養や習い事の一つに見られてしまうような信仰ではなく、
生きがい、働きがいと直結するレベルで、
生き方暮らし方の土台に、徹底的に、
信仰がないとなんの意味がないなと思わされました。
相変わらず、ハードです。
2017年2月26日日曜日
『親切なボアズ』豊世 武士 先生
2017年2月26日 第4主日礼拝
礼拝説教:豊世 武士 先生(熊本東聖書キリスト教会 牧師)
聖書箇所:ルツ記2章8-13節
説教主題:『親切なボアズ』
招詞:ルツ記2章10節
礼拝説教:豊世 武士 先生(熊本東聖書キリスト教会 牧師)
聖書箇所:ルツ記2章8-13節
説教主題:『親切なボアズ』
招詞:ルツ記2章10節
彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。
「私が外国人であるのを知りながら、
どうして親切にしてくださるのですか。」
ラベル:
過去の説教音声
2017年2月24日金曜日
第4主日礼拝のお知らせ
2017年2月26日 第4主日礼拝
礼拝説教:豊世 武士 先生(熊本東聖書キリスト教会 牧師)
聖書箇所:ルツ記2章8-13節
説教主題:『親切なボアズ』
招詞:ルツ記2章10節
聖書のお話:『ヒゼキヤ』
聖書箇所:2列王記18~19章
暗唱聖句:詩篇62篇2節
礼拝説教:豊世 武士 先生(熊本東聖書キリスト教会 牧師)
聖書箇所:ルツ記2章8-13節
説教主題:『親切なボアズ』
招詞:ルツ記2章10節
彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。教会学校
「私が外国人であるのを知りながら、
どうして親切にしてくださるのですか。」
聖書のお話:『ヒゼキヤ』
聖書箇所:2列王記18~19章
暗唱聖句:詩篇62篇2節
神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。
私は決して、ゆるがされない
ラベル:
礼拝のお知らせ
2017年2月21日火曜日
今日の青年会
毎週火曜の青年会。
今日も無事に開催できました!
いつもお祈りありがとうございます。
今日は『ラディカル』の第6章後半。
「どれだけあれば十分と言えるか」の続きでした。
この章をざっくりまとめると、
神様から任されている資産を、どのような水準で管理しているか?
必要以上のものは自分以外の人のために用いるべきであるが、
「どこまで」が自分に「必要」か。
…こういったことをとことん突き詰めていく内容でした。
もちろんお金や富そのものは聖書は否定していませんし、
むしろ祝福として与えられてもいるのですが、
それは同時に強い誘惑でもあると教えられています。
仮に、お金やモノがそれ自体罪的なものであるとしたら、
私たちの暮らしは深刻なレベルで荒んでいくでしょう。
インターネットを利用するためのスマホも、パソコンも、
暖かいお家も、エアコンも、夜でも明るくできる照明も、
全部、贅沢で罪的なものだと決めつけてしまったら、
私たちはこの世から去ってしまわないといけなくなります。
また、高価なブランド品や高級車など「贅沢品」そのものも、
買うべきか買わないかという話ではなく、
その会社に勤めている人、販売している人、
生業としている人たちのことを思うと、簡単に断罪できないでしょう。
一口に贅沢品、嗜好品そのものを悪と決めつけてしまうのは簡単ですが、
そうした場合、この社会での私たちの居場所は極端に狭くなってしまうのもまた事実です。
この章で学んでいるのは、
そのようなお金=罪、という短絡的な評価を下すことではありません。
それぞれに任されている財産のうち、
どこまでが「必要」で、どこからが「余剰」なのか。
このラインが絶対基準として固定されない中、
私たちは実際問題どのように実践していくか、ということ。
それが大きな問いかけでした。
瞬間瞬間に、お金を使う局面で私たちの良心は試されています。
貧しさにあえでいる兄弟姉妹のために分け合うことが勧められていますが、
このことをいつも心に覚えているか?
そんな問いかけです。
先進国に暮らしている私たちは、
相当豊かな社会に生きていますが、
この社会に慣れきってしまっているのでその豊かさを忘れがちです。
蛇口をひねれば水が出て、清潔に暮らせて、
暖を取れて、火も使える。
100円で日用品のほとんどは揃うし、
コンビニもそこかしこにある。
世界の貧困にあえぐ国と比べれば、
非常に豊かなはずです。
その上でお金がないと文句を言ってしまうものですが、
手元にあるものを、どのように管理しているか。
その心はどのようなことで満たされているか。
つまり、私たちが「宝」としてるものは何か。
お金の使い道を通して、自分の優先しているものが見えてきます。
確かにお金はあればあるだけ、何かに使えます。
問題は、それを何にどのように使うかということ。
お金の使い方には、その人の良心・価値観が表れます。
福音は、人から人にその人のぬくもりを通して伝わりますが、
お金の使い方次第で伝わりもすれば、遮断してしまうとも言えそうです。
また、お金を使うとは、
社会に関わるということでもあります。
お金を汚いものとし、悪だとし、罪だと決めつけて、
お金をまったく遠ざけて隠居生活すれば、確かに楽かもしれません。
けれどもそれでは社会と絶縁することと同じで、
福音を携えて人々に伝えに行くことはできません。
つまり福音を伝えに行くとは、
大胆に言えば、社会に積極的に関わっていくこと、
人のためにお金を使っていくこと、と言えるかも知れません。
…今日は、任された財産の使い方の「どこまで」という
量的な問題がテーマでしたが、本当に、終わりのない問いかけだと思いました。
収入のどれくらいを捧げるか。
どこまでなら「贅沢」は許されるか。
教会の予算を自分たちだけのために使うのではなく、
地域のために使うべきではないのかなど、
お金に関して際限なく問いかけが生まれます。
財産の管理には明確な基準はなく(1/10の献金は別として)、
その基準は完全に個々人に委ねられています。
それぞれに任されている財産を賢く使うこと。
天に宝を積む使い方をすること。
これに尽きるのだと思いますが、
大きなチャレンジであり続けます。
したいこと、欲しいもの。
この文化で生きる限り、数限りなく心に囁いてくるでしょう。
与えられるものを祝福として喜び、味わうものの、
節度が求められます。
そして、自ら捧げることの喜びを味わうようにとも召されています。
神であり、すべての豊かさの源泉であられる方が、
何も持たず、裸にされ、十字架につけられ、すべてを私たちに捧げたことを思い、
私たちも、満たされない人たちのためにささげられたらなと思います。
豊かさを分け合うために、任されているものを積極的に捧げていけるよう、祈り続けましょう。
今日も無事に開催できました!
いつもお祈りありがとうございます。
今日は『ラディカル』の第6章後半。
「どれだけあれば十分と言えるか」の続きでした。
この章をざっくりまとめると、
神様から任されている資産を、どのような水準で管理しているか?
必要以上のものは自分以外の人のために用いるべきであるが、
「どこまで」が自分に「必要」か。
…こういったことをとことん突き詰めていく内容でした。
もちろんお金や富そのものは聖書は否定していませんし、
むしろ祝福として与えられてもいるのですが、
それは同時に強い誘惑でもあると教えられています。
仮に、お金やモノがそれ自体罪的なものであるとしたら、
私たちの暮らしは深刻なレベルで荒んでいくでしょう。
インターネットを利用するためのスマホも、パソコンも、
暖かいお家も、エアコンも、夜でも明るくできる照明も、
全部、贅沢で罪的なものだと決めつけてしまったら、
私たちはこの世から去ってしまわないといけなくなります。
また、高価なブランド品や高級車など「贅沢品」そのものも、
買うべきか買わないかという話ではなく、
その会社に勤めている人、販売している人、
生業としている人たちのことを思うと、簡単に断罪できないでしょう。
一口に贅沢品、嗜好品そのものを悪と決めつけてしまうのは簡単ですが、
そうした場合、この社会での私たちの居場所は極端に狭くなってしまうのもまた事実です。
この章で学んでいるのは、
そのようなお金=罪、という短絡的な評価を下すことではありません。
それぞれに任されている財産のうち、
どこまでが「必要」で、どこからが「余剰」なのか。
このラインが絶対基準として固定されない中、
私たちは実際問題どのように実践していくか、ということ。
それが大きな問いかけでした。
瞬間瞬間に、お金を使う局面で私たちの良心は試されています。
貧しさにあえでいる兄弟姉妹のために分け合うことが勧められていますが、
このことをいつも心に覚えているか?
そんな問いかけです。
先進国に暮らしている私たちは、
相当豊かな社会に生きていますが、
この社会に慣れきってしまっているのでその豊かさを忘れがちです。
蛇口をひねれば水が出て、清潔に暮らせて、
暖を取れて、火も使える。
100円で日用品のほとんどは揃うし、
コンビニもそこかしこにある。
世界の貧困にあえぐ国と比べれば、
非常に豊かなはずです。
その上でお金がないと文句を言ってしまうものですが、
手元にあるものを、どのように管理しているか。
その心はどのようなことで満たされているか。
つまり、私たちが「宝」としてるものは何か。
お金の使い道を通して、自分の優先しているものが見えてきます。
確かにお金はあればあるだけ、何かに使えます。
問題は、それを何にどのように使うかということ。
お金の使い方には、その人の良心・価値観が表れます。
福音は、人から人にその人のぬくもりを通して伝わりますが、
お金の使い方次第で伝わりもすれば、遮断してしまうとも言えそうです。
また、お金を使うとは、
社会に関わるということでもあります。
お金を汚いものとし、悪だとし、罪だと決めつけて、
お金をまったく遠ざけて隠居生活すれば、確かに楽かもしれません。
けれどもそれでは社会と絶縁することと同じで、
福音を携えて人々に伝えに行くことはできません。
つまり福音を伝えに行くとは、
大胆に言えば、社会に積極的に関わっていくこと、
人のためにお金を使っていくこと、と言えるかも知れません。
…今日は、任された財産の使い方の「どこまで」という
量的な問題がテーマでしたが、本当に、終わりのない問いかけだと思いました。
収入のどれくらいを捧げるか。
どこまでなら「贅沢」は許されるか。
教会の予算を自分たちだけのために使うのではなく、
地域のために使うべきではないのかなど、
お金に関して際限なく問いかけが生まれます。
財産の管理には明確な基準はなく(1/10の献金は別として)、
その基準は完全に個々人に委ねられています。
それぞれに任されている財産を賢く使うこと。
天に宝を積む使い方をすること。
これに尽きるのだと思いますが、
大きなチャレンジであり続けます。
したいこと、欲しいもの。
この文化で生きる限り、数限りなく心に囁いてくるでしょう。
与えられるものを祝福として喜び、味わうものの、
節度が求められます。
そして、自ら捧げることの喜びを味わうようにとも召されています。
神であり、すべての豊かさの源泉であられる方が、
何も持たず、裸にされ、十字架につけられ、すべてを私たちに捧げたことを思い、
私たちも、満たされない人たちのためにささげられたらなと思います。
豊かさを分け合うために、任されているものを積極的に捧げていけるよう、祈り続けましょう。
ラベル:
青年会
2017年2月19日日曜日
『原福音』森下 薫 先生
2017年2月19日 第3主日礼拝
礼拝説教:森下 薫 先生(人吉聖書教会 牧師)
聖書箇所:創世記3章13~15節
説教主題:『原福音』
招詞:ローマ人への手紙16章20節
礼拝説教:森下 薫 先生(人吉聖書教会 牧師)
聖書箇所:創世記3章13~15節
説教主題:『原福音』
招詞:ローマ人への手紙16章20節
平和の神は、すみやかに、
あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。
ラベル:
過去の説教音声
2017年2月18日土曜日
第3主日礼拝のお知らせ
2017年2月19日 第3主日礼拝
礼拝説教:森下 薫 先生(人吉聖書教会 牧師)
聖書箇所:創世記3章13~15節
説教主題:『原福音』
招詞:ローマ人への手紙16章20節
聖書のお話:『ナアマン』
聖書箇所:2列王記5章1~19節
暗唱聖句:ヤコブの手紙1章21節
礼拝説教:森下 薫 先生(人吉聖書教会 牧師)
聖書箇所:創世記3章13~15節
説教主題:『原福音』
招詞:ローマ人への手紙16章20節
平和の神は、すみやかに、教会学校
あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。
聖書のお話:『ナアマン』
聖書箇所:2列王記5章1~19節
暗唱聖句:ヤコブの手紙1章21節
すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、
心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。
ラベル:
礼拝のお知らせ
2017年2月15日水曜日
今日の青年会
毎週火曜の青年会。
今日も無事に開催できました!
(先週は主催が風邪をひいてしまって休みました)
いつもお祈りありがとうございます。
今日は『ラディカル』の第6章前半。 「どれだけあれば十分と言えるか」でした。
これまで、世界宣教の実践において
キリストは弟子作りにほとんどの力を注いだ、
という観点から本書の問いかけを味わってきました。
その中で特に目立った著者の視点は、
アメリカ文化の豊かさの上に立つ今の教会文化は、
キリストが示した福音的な姿勢とは大きく異なるのではないか、というもの。
アメリカの教会における「成功」とは、
経済的な豊かさであり、教会堂の大きさ、会員の多さなど
目に見えて計測できる数字にあり、
この文化的な傾向に対しての強い違和感に、著者は真正面から向き合います。
本書はアメリカ文化に属する人を対象に書かれていますので、
日本人が読むときは、少し文化的な違いに留意して読まないといけませんが、
アメリカも日本も、経済至上主義な文化からすれば似たようのもの。
お金が価値の優劣を決める、最重要ファクターとする文化に染まっているので、
著者が警鐘を鳴らすポイントは同じです。
つまり、私たちは、物質的に恵まれている環境に生かされているが、
同じように教会に属しながらも、貧困にあえぐ世界の「兄弟姉妹」の現実には、
目を背けていないだろうか?何もしてあげていないのではないか?
自分たちの「教会」の発展ばかりに目を向けて、
現実に貧困に苦しんでいる「兄弟姉妹」のことなど、知らんぷりではないか?
このような問いかけは、この本を読む者全員に投げかけられており、
ギクりとさせられます。
できれば聞きたくない耳が痛い内容です。
キリストが「持ち物を全部売り払いなさい」と
裕福な若者におっしゃられた箇所を読む時に感じる、
自分にはおっしゃいませんように、と思うような居心地の悪さです。
確かに、貧しい人に施しをする行いが、
そのまま救いの条件ではありません。
けれども、キリストを受け入れた者は、
貧しい者の痛みを理解し、できるならば助けてあげたいという心をももつはずです。
自分たちの暮らしを今より少しでも豊かにしたいという、
足るを知らない心、貪る心であってはいけないと思うわけです。
聖書は、富や豊かさそのものを断罪していません。
私たちは短絡的にお金=悪と解釈しがちですが、
実際、物質的に裕福な信仰者も聖書にはたくさん登場します。
大切なのは、富をどのように用いるか、また、その心です。
同じキリストの体に属する兄弟姉妹が苦しんでいるのに、
見て見ぬ振りをするのか。その応答が、いかなるものか。
それが信仰の真価を試すということです。
…今日は文化的にも、社会的にも
教会に波紋を起こすような問いかけに富んだトピックでした。
徹底的に主に従うこと。
イエスを人生の全領域で主と認めること。
生活のすべてを見渡して、神様と一致することは、
今、身を置いている日本では簡単ではないだろうな、と思います。
日曜日には軽々と礼拝をし、主を賛美していますが
生活は福音とは反するものになっているかもしれないと思うと、恐ろしくもあります。
慎ましく、主に示されることに素直に従えるよう祈りたいと思います。
(先週は主催が風邪をひいてしまって休みました)
いつもお祈りありがとうございます。
今日は『ラディカル』の第6章前半。 「どれだけあれば十分と言えるか」でした。
これまで、世界宣教の実践において
キリストは弟子作りにほとんどの力を注いだ、
という観点から本書の問いかけを味わってきました。
その中で特に目立った著者の視点は、
アメリカ文化の豊かさの上に立つ今の教会文化は、
キリストが示した福音的な姿勢とは大きく異なるのではないか、というもの。
アメリカの教会における「成功」とは、
経済的な豊かさであり、教会堂の大きさ、会員の多さなど
目に見えて計測できる数字にあり、
この文化的な傾向に対しての強い違和感に、著者は真正面から向き合います。
本書はアメリカ文化に属する人を対象に書かれていますので、
日本人が読むときは、少し文化的な違いに留意して読まないといけませんが、
アメリカも日本も、経済至上主義な文化からすれば似たようのもの。
お金が価値の優劣を決める、最重要ファクターとする文化に染まっているので、
著者が警鐘を鳴らすポイントは同じです。
つまり、私たちは、物質的に恵まれている環境に生かされているが、
同じように教会に属しながらも、貧困にあえぐ世界の「兄弟姉妹」の現実には、
目を背けていないだろうか?何もしてあげていないのではないか?
自分たちの「教会」の発展ばかりに目を向けて、
現実に貧困に苦しんでいる「兄弟姉妹」のことなど、知らんぷりではないか?
このような問いかけは、この本を読む者全員に投げかけられており、
ギクりとさせられます。
できれば聞きたくない耳が痛い内容です。
キリストが「持ち物を全部売り払いなさい」と
裕福な若者におっしゃられた箇所を読む時に感じる、
自分にはおっしゃいませんように、と思うような居心地の悪さです。
確かに、貧しい人に施しをする行いが、
そのまま救いの条件ではありません。
けれども、キリストを受け入れた者は、
貧しい者の痛みを理解し、できるならば助けてあげたいという心をももつはずです。
自分たちの暮らしを今より少しでも豊かにしたいという、
足るを知らない心、貪る心であってはいけないと思うわけです。
聖書は、富や豊かさそのものを断罪していません。
私たちは短絡的にお金=悪と解釈しがちですが、
実際、物質的に裕福な信仰者も聖書にはたくさん登場します。
大切なのは、富をどのように用いるか、また、その心です。
同じキリストの体に属する兄弟姉妹が苦しんでいるのに、
見て見ぬ振りをするのか。その応答が、いかなるものか。
それが信仰の真価を試すということです。
…今日は文化的にも、社会的にも
教会に波紋を起こすような問いかけに富んだトピックでした。
徹底的に主に従うこと。
イエスを人生の全領域で主と認めること。
生活のすべてを見渡して、神様と一致することは、
今、身を置いている日本では簡単ではないだろうな、と思います。
日曜日には軽々と礼拝をし、主を賛美していますが
生活は福音とは反するものになっているかもしれないと思うと、恐ろしくもあります。
慎ましく、主に示されることに素直に従えるよう祈りたいと思います。
2017年2月12日日曜日
『イエス様の力ある業から』横山 秀喜 先生
2017年2月12日 第2主日礼拝
礼拝説教:横山 秀喜 先生(多良木聖書教会 牧師)
聖書箇所:マタイの福音書9章27-38節
説教主題:『イエス様の力ある業から』
招詞:マタイの福音書9章35節
礼拝説教:横山 秀喜 先生(多良木聖書教会 牧師)
聖書箇所:マタイの福音書9章27-38節
説教主題:『イエス様の力ある業から』
招詞:マタイの福音書9章35節
それから、イエスは、すべての町や村を巡って、
会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、
あらゆるわずらいをいやされた。
ラベル:
過去の説教音声
2017年2月11日土曜日
第2主日礼拝のお知らせ
2017年2月12日 第2主日礼拝
礼拝説教:横山 秀喜 先生(多良木聖書教会 牧師)
聖書箇所:マタイの福音書9章27-38節
説教主題:『イエス様の力ある業から』
招詞:マタイの福音書9章35節
聖書のお話:『エリヤ』
聖書箇所:1列王記18章1~39節
暗唱聖句:1列王記18章15節
礼拝説教:横山 秀喜 先生(多良木聖書教会 牧師)
聖書箇所:マタイの福音書9章27-38節
説教主題:『イエス様の力ある業から』
招詞:マタイの福音書9章35節
それから、イエスは、すべての町や村を巡って、教会学校
会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、
あらゆるわずらいをいやされた。
聖書のお話:『エリヤ』
聖書箇所:1列王記18章1~39節
暗唱聖句:1列王記18章15節
私が仕えている万軍の主は生きておられます
ラベル:
礼拝のお知らせ
2017年2月5日日曜日
『落穂拾い』豊世 武士 先生
2017年2月5日 第1主日礼拝
礼拝説教:豊世 武士 先生(熊本東聖書キリスト教会 牧師)
聖書箇所:ルツ記2章1~7節
説教主題:『落穂拾い』
招詞:ルツ記 1章22節
礼拝説教:豊世 武士 先生(熊本東聖書キリスト教会 牧師)
聖書箇所:ルツ記2章1~7節
説教主題:『落穂拾い』
招詞:ルツ記 1章22節
こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。
ラベル:
過去の説教音声
2017年2月4日土曜日
第1主日礼拝のお知らせ
2017年2月5日 第1主日礼拝
礼拝説教:豊世 武士 先生(熊本東聖書キリスト教会 牧師)
聖書箇所:ルツ記1章19~22節
説教主題:『ナオミとルツ』
招詞:ルツ記 1章22節
教会学校
聖書のお話:『ソロモン』
聖書箇所:1列王記3章
暗唱聖句:箴言9章10節
礼拝説教:豊世 武士 先生(熊本東聖書キリスト教会 牧師)
聖書箇所:ルツ記1章19~22節
説教主題:『ナオミとルツ』
招詞:ルツ記 1章22節
こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。
教会学校
聖書のお話:『ソロモン』
聖書箇所:1列王記3章
暗唱聖句:箴言9章10節
主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである
ラベル:
礼拝のお知らせ
2017年2月1日水曜日
今日の青年会
毎週火曜の青年会。
今日も無事に開催できました!
いつもお祈りありがとうございます。
今日は『ラディカル』の第5章。 「増幅する共同体」でした。
弟子作りこそ世界宣教の中核にあり、
この言葉は私たちに向けられているものだ、
というのが今回のテーマです。
毎回読むたびに思わされるのが、
私たちは同じキリストの言葉でも
つまみぐいしてしまっているということ。
疲れた人は私のところに来なさいと語られたイエスは、
同じように私たちに、世界中に福音を伝えなさいと言われました。
同じ重さで、キリストの言葉を受け止めていない自分に気づかされます。
世界宣教、弟子作りの実践は、
福音を知らない人に罪を示し真理を突きつけることに本質があるのではなく、
関係を作ることだと5章では語られていました。
私たちは、宣教とか、伝道とか
とかく大きく捉えて曖昧にしてしまいますが、
もっと現実的で、実践的で、効果的な方法があることを見落としている気がします。
また、何千人もの大衆に対して奇蹟を行い、
力強く福音を語ったキリストが、
実はそのようなみわざ以上に
たったの12人の弟子育成に時間を割いたことに気を留めていません。
このキリストがされた実践にこそ、
今の私たちに決定的に必要なすべてがあるように思います。
伝道とは、生きた関係を作ること。
ここに尽きるように思います。
洗礼を授け、教え導くこと。
福音を受け取った者自身が、同じように洗礼を授け、
教え導けるように育成する。
この単純なプロセスが連綿と2000年も続いて、
こうして私たちも福音を受け取ったのではないでしょうか。
このキリストの実践に思いをはせる時、
自分が福音のリレーをストップさせているのではないかと思わされます。
みことばを語り、分かち合い、学びを継続すること。
これも「教える」という行為の一つでしょう。
私たちが公に教える立場でなくてもできることです。
教会の講壇にたってメッセージをすることだけが「教える」のではなく、
生きた人間関係の中、生活のふとした瞬間、祈りの中で
神のみことばが聞く者の心にしみこんでいくのだと思うのです。
みことばを教えることも、キリストの弟子に導いていくことも、
誰かに任せていいものではなく、
自分自身が実践しなければいけないこと。
また、その実践の場、福音を伝えるべき人、
深い関係を築くべき人、キリストにつなげるべき人は
私たちそれぞれに与えられています。
キリストのいのちに生かされている私たちは、
神様の栄光をあらわして生きようと思う限り、必ずこの歩みに導かれます。
そして、それは可能で、必要なすべては与えれてるというのが
私たちに与えられている約束でしょう。
キリストのいのちが私たちの中に生きていて、
そしてそのいのちに、いのちを失われている人をつなげていく。
これが私たちに託されている主の命令です。
主の祝福を受け、栄光をあらわす。
この恵みの輪に、今、この私たちでどのよう加わっていくか。
...今遣わされている持ち場で実践していけるよう、祈っていきましょう。
いつもお祈りありがとうございます。
今日は『ラディカル』の第5章。 「増幅する共同体」でした。
弟子作りこそ世界宣教の中核にあり、
この言葉は私たちに向けられているものだ、
というのが今回のテーマです。
毎回読むたびに思わされるのが、
私たちは同じキリストの言葉でも
つまみぐいしてしまっているということ。
疲れた人は私のところに来なさいと語られたイエスは、
同じように私たちに、世界中に福音を伝えなさいと言われました。
同じ重さで、キリストの言葉を受け止めていない自分に気づかされます。
世界宣教、弟子作りの実践は、
福音を知らない人に罪を示し真理を突きつけることに本質があるのではなく、
関係を作ることだと5章では語られていました。
私たちは、宣教とか、伝道とか
とかく大きく捉えて曖昧にしてしまいますが、
もっと現実的で、実践的で、効果的な方法があることを見落としている気がします。
また、何千人もの大衆に対して奇蹟を行い、
力強く福音を語ったキリストが、
実はそのようなみわざ以上に
たったの12人の弟子育成に時間を割いたことに気を留めていません。
このキリストがされた実践にこそ、
今の私たちに決定的に必要なすべてがあるように思います。
伝道とは、生きた関係を作ること。
ここに尽きるように思います。
洗礼を授け、教え導くこと。
福音を受け取った者自身が、同じように洗礼を授け、
教え導けるように育成する。
この単純なプロセスが連綿と2000年も続いて、
こうして私たちも福音を受け取ったのではないでしょうか。
このキリストの実践に思いをはせる時、
自分が福音のリレーをストップさせているのではないかと思わされます。
みことばを語り、分かち合い、学びを継続すること。
これも「教える」という行為の一つでしょう。
私たちが公に教える立場でなくてもできることです。
教会の講壇にたってメッセージをすることだけが「教える」のではなく、
生きた人間関係の中、生活のふとした瞬間、祈りの中で
神のみことばが聞く者の心にしみこんでいくのだと思うのです。
みことばを教えることも、キリストの弟子に導いていくことも、
誰かに任せていいものではなく、
自分自身が実践しなければいけないこと。
また、その実践の場、福音を伝えるべき人、
深い関係を築くべき人、キリストにつなげるべき人は
私たちそれぞれに与えられています。
キリストのいのちに生かされている私たちは、
神様の栄光をあらわして生きようと思う限り、必ずこの歩みに導かれます。
そして、それは可能で、必要なすべては与えれてるというのが
私たちに与えられている約束でしょう。
キリストのいのちが私たちの中に生きていて、
そしてそのいのちに、いのちを失われている人をつなげていく。
これが私たちに託されている主の命令です。
主の祝福を受け、栄光をあらわす。
この恵みの輪に、今、この私たちでどのよう加わっていくか。
...今遣わされている持ち場で実践していけるよう、祈っていきましょう。