熊本北聖書キリスト教会

熊本北聖書キリスト教会

2017年2月28日火曜日

今日の青年会

毎週火曜の青年会。
 
今日も無事に開催できました!
 
いつもお祈りありがとうございます。
 
  
今日は『ラディカル』の第7章。
「代案はない〜なぜ出て行くことは選択肢ではなく、緊急なのか〜」でした。
 
「代案」というのは、救いに至る道について
あれこれと多元論的に議論してしまうことに対して、発せられています。
 
 
人の生命について深く思い巡らし、福音に触れ、
死後はどうなるのかと一度でも考えたことがあれば、
今日の内容は心当たりのあるテーマかもしれません。
 
「福音に聞かずに死んだ人は、どうなるのか」
 
これは、教会やクリスチャンが一般的に受けやすい
外部からの問いかけでもあるかもしれません。
 
 
他にも、幼くして死んでしまった場合、
その子も罪に定められるの?
 
といった疑問もとめどもなく出てくると思います。
 
 
そういうどうしようもない事情があったのに、
神は容赦なく断罪するのか?
 
という感情的な抵抗感が多くの人に前提としてあるわけです。
 
 
この辺りの内容が、今日読んだ7章では
ローマ人への手紙をベースに深く掘り下げられていました。
  

ここで、人間が誰一人として例外なく神の前に有罪であること、
そのためにキリストが死んでよみがえられたこと、
つまり、救いの道が神から与えられたということを
改めて味わいました。
  
 
「すべての人は神を知っている」
という出だしに述べられる前提部分から
早くも理解に苦しむのですが、
私たち人間は、全員、神を「知って」いながら、
神を拒絶して、罪ある存在として生きていると述べられています。
 
そのため、例外なく、人は全員
神を拒絶しているため有罪判決を受ける…。
  
こう明言されています。
 
そして人間側からは、何一つ神の赦しを得る方法がないため、
そこには絶望しかありません。

だから神がキリストを贈ってくださった。
 
….と、すでに福音を受け取っている私たちは、
このあたりの罪の話、救いの話は
耳にタコができるくらい聞いていますので
ここで多くを述べる必要はないと思いますが、
続けて著者はかなり厳しいことを指摘します。
 
私たちのは多くは、知的普遍論者か、
実際的な普遍論者である、と。
 

…今の時代、考え方や意見や趣味など個々人の違いが尊重され、
それぞれが同等に正当に扱われるべきであるという価値観が、
教会内にも文化として入り込んできています。

信仰が好みの問題に貶められているのが
現代の文化的流れであることに、無自覚的であること。
 
すべての宗教は基本的には同じだとする普遍主義的な考え方が
教会内にも入り込んでいる、ということ。
  

また、実際的な普遍論者というのは
積極的には福音を携えて外に出て行かない
ほとんどのクリスチャンのことです。
 
周りの人がキリストの福音を知らなくても、
我関せずという態度をとっているクリスチャンと聞いて、
ドキっとしない人はいないでしょう。
 
自分こそそうだ、と。
 
 
 
…この『ラディカル』という一冊の本が
始めから繰り返していることですが、
この本は、福音を携えて出て行くように呼びかけています。
 
何気なく教会に参加し、メッセージを聞き、賛美をし、
毎日聖書を読んでいるだけで、外に出て行かない私たちに向けられた本です。
 
この章では特に、
世界中の数十億もの人がキリストの福音を聞くことができないでいるのは、
私たちが福音を伝えに出て行かないからだと、
徹底的に私たちの責任の重さと、現実と、
神の呼びかけの明瞭さを浮き彫りにしています。
 
 
…神のプランは明確です。
 
私たちを通して、福音を全世界に伝えさせ、神の国を広げていくこと。
 
働き人を起こして福音を伝えるという手段を神は採用しています。
 
誰かがやってくれるだろうと人任せにしている私たちにこそ、
神は呼びかけ、神の働きに招いておられるというのです。
これこそ本当の生きがい、生きる意味だよ、と。
 
これが声高に聖書が叫び続けている宣教令ではないでしょうか。
 
 

…キリストの福音を聞いたことがない人は、どうなるのか。
  
例外なく有罪判決が下る人類の、
唯一の望みである福音が聞けない人はどうなるのか。
  

…これに対して神はどうするのか、
と私たちは知りようがないことですが、
私たちは、そのような人たちに福音を伝えるという
重大な働きが任されています。
 
 
他人事では済まないよ、と迫る内容で、
正直「どうしよう」と思ってしまう重みです。
 
 
どうしようかなー、生活があるしなー、
と選択肢の一つにしてしまっている私たちに、
「選択の余地はない、これは緊急事態だ」
と言われているようでした。
 
 
..教養や習い事の一つに見られてしまうような信仰ではなく、
生きがい、働きがいと直結するレベルで、
生き方暮らし方の土台に、徹底的に、
信仰がないとなんの意味がないなと思わされました。 
 
相変わらず、ハードです。



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