毎週火曜の青年会。
今日も無事に開催できました!
いつもお祈りありがとうございます。
今日は『ラディカル』の第6章後半。
「どれだけあれば十分と言えるか」の続きでした。
この章をざっくりまとめると、
神様から任されている資産を、どのような水準で管理しているか?
必要以上のものは自分以外の人のために用いるべきであるが、
「どこまで」が自分に「必要」か。
…こういったことをとことん突き詰めていく内容でした。
もちろんお金や富そのものは聖書は否定していませんし、
むしろ祝福として与えられてもいるのですが、
それは同時に強い誘惑でもあると教えられています。
仮に、お金やモノがそれ自体罪的なものであるとしたら、
私たちの暮らしは深刻なレベルで荒んでいくでしょう。
インターネットを利用するためのスマホも、パソコンも、
暖かいお家も、エアコンも、夜でも明るくできる照明も、
全部、贅沢で罪的なものだと決めつけてしまったら、
私たちはこの世から去ってしまわないといけなくなります。
また、高価なブランド品や高級車など「贅沢品」そのものも、
買うべきか買わないかという話ではなく、
その会社に勤めている人、販売している人、
生業としている人たちのことを思うと、簡単に断罪できないでしょう。
一口に贅沢品、嗜好品そのものを悪と決めつけてしまうのは簡単ですが、
そうした場合、この社会での私たちの居場所は極端に狭くなってしまうのもまた事実です。
この章で学んでいるのは、
そのようなお金=罪、という短絡的な評価を下すことではありません。
それぞれに任されている財産のうち、
どこまでが「必要」で、どこからが「余剰」なのか。
このラインが絶対基準として固定されない中、
私たちは実際問題どのように実践していくか、ということ。
それが大きな問いかけでした。
瞬間瞬間に、お金を使う局面で私たちの良心は試されています。
貧しさにあえでいる兄弟姉妹のために分け合うことが勧められていますが、
このことをいつも心に覚えているか?
そんな問いかけです。
先進国に暮らしている私たちは、
相当豊かな社会に生きていますが、
この社会に慣れきってしまっているのでその豊かさを忘れがちです。
蛇口をひねれば水が出て、清潔に暮らせて、
暖を取れて、火も使える。
100円で日用品のほとんどは揃うし、
コンビニもそこかしこにある。
世界の貧困にあえぐ国と比べれば、
非常に豊かなはずです。
その上でお金がないと文句を言ってしまうものですが、
手元にあるものを、どのように管理しているか。
その心はどのようなことで満たされているか。
つまり、私たちが「宝」としてるものは何か。
お金の使い道を通して、自分の優先しているものが見えてきます。
確かにお金はあればあるだけ、何かに使えます。
問題は、それを何にどのように使うかということ。
お金の使い方には、その人の良心・価値観が表れます。
福音は、人から人にその人のぬくもりを通して伝わりますが、
お金の使い方次第で伝わりもすれば、遮断してしまうとも言えそうです。
また、お金を使うとは、
社会に関わるということでもあります。
お金を汚いものとし、悪だとし、罪だと決めつけて、
お金をまったく遠ざけて隠居生活すれば、確かに楽かもしれません。
けれどもそれでは社会と絶縁することと同じで、
福音を携えて人々に伝えに行くことはできません。
つまり福音を伝えに行くとは、
大胆に言えば、社会に積極的に関わっていくこと、
人のためにお金を使っていくこと、と言えるかも知れません。
…今日は、任された財産の使い方の「どこまで」という
量的な問題がテーマでしたが、本当に、終わりのない問いかけだと思いました。
収入のどれくらいを捧げるか。
どこまでなら「贅沢」は許されるか。
教会の予算を自分たちだけのために使うのではなく、
地域のために使うべきではないのかなど、
お金に関して際限なく問いかけが生まれます。
財産の管理には明確な基準はなく(1/10の献金は別として)、
その基準は完全に個々人に委ねられています。
それぞれに任されている財産を賢く使うこと。
天に宝を積む使い方をすること。
これに尽きるのだと思いますが、
大きなチャレンジであり続けます。
したいこと、欲しいもの。
この文化で生きる限り、数限りなく心に囁いてくるでしょう。
与えられるものを祝福として喜び、味わうものの、
節度が求められます。
そして、自ら捧げることの喜びを味わうようにとも召されています。
神であり、すべての豊かさの源泉であられる方が、
何も持たず、裸にされ、十字架につけられ、すべてを私たちに捧げたことを思い、
私たちも、満たされない人たちのためにささげられたらなと思います。
豊かさを分け合うために、任されているものを積極的に捧げていけるよう、祈り続けましょう。
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