毎週火曜の青年会。
今日も開催できました。
いつもお祈りありがとうございます!
時々ゲストがふらっとやって来てくれるので、
迎える方も楽しみがあっていいです。
少人数でやっていますので、
全員が近くで意見交換できるのがいいですね。
…今日は『ラディカル』の最後、
第9章のまとめのところでした。
ラディカルな実験として、
著者が私たちに実践を迫ってくるわけですが、
とっかかりがなければ難しいので
5ステップで提案してくれています。
1.全世界のために祈る
2.聖書全巻を通読する
3.自分のお金を特定の目的のために用いる。
4.一定の期間を別の場所で過ごす。
5.信仰共同体の増幅のために自分の生活をささげる。
今日は、5番目。
世界のために祈ったり、
聖書を通読したり、
お金や時間を捧げたりするわけですが、
結局のところ、教会を通してでなければ
福音の伝わり方としては
神様の計画ではないと述べられています。
教会を通して福音を伝えること。
それは、教会こそが
みことばの実現するところだからです。
キリストのからだとして表現されるように、
教会は、私たちの霊肉が集まる場であり、
キリストと一つとなる場です。
一人一人がキリストによって結び合わされ、
神の国の一員として生かされていることを
この地上において確認する場でもあります。
天の御国の前味を体験するところとも言えます。
キリストの花嫁とも表現される教会を、
神がどれほど深く愛され、
情熱を注がれたのかは聖書から学び取れます。
その教会を起点として、
私たちは世界に出て行くべきなのです。
信仰があれば、別に一人でいてもいい、
信じていれば問題ないという考えも
中には持っている方もいるでしょう。
属すべき教会がなく、
貢献したいと思える教会もない方も
いるかもしれません。
ですが、個人的にどんな理由があっても
神様は教会に私たちが属することを望まれます。
キリストのからだに属さない限り、
結局はいのちを保てないからです。
祈るにしても、
私たちは一人で祈るのではありません。
共に心を合わせて祈るのです。
そして、私たち以上に
キリストが一緒に祈ってくださいます。
教会に属することを抜きにして、
信仰生活は考えられません。
これまで『ラディカル』を読んできて、
至るところで世界に福音を宣べ伝え
出かけて行くようにと呼びかけられてきました。
それは、教会の一員としてでなければ
実践には結びつきません。
そして、そうでなければ意味もありません。
福音を受け取る人が
新しく教会に属するようになること、
新たな教会が建てられていくこと。
こういったビジョンがあるからこそ、
教会を抜きにして福音は語れません。
時間もお金も、直接的には
教会にささげ、そこに属する兄弟姉妹の
必要を満たすために用いてもらう。
そして、自分たちの教会だけでなく、
世界中の教会も同じキリストのからだですから
世界中の必要に応じれるように、
時間とお金とをささげていくこと。
このようにして福音が伝わり、
本当のニーズが満たされていくのだと
『ラディカル』では繰り返し語られていました。
当教会でも熊本地震の際には、
すぐに全国の、世界からの支援がありました。
同じキリストのからだに属しており、
痛みを共有してくれたからだと思います。
自分や自分の家族、
自分の教会のことだけでなく、
キリストのからだとしての
全世界のすべての教会に思いを馳せ、
そのために自らをささげていくこと。
犠牲を主のために払っていくこと。
その強烈な呼びかけが
『ラディカル』にはありました。
主はいつも読んでおられることを
思い起こさせてくれて、
目の前にはなすべき主の仕事が山積みになっているということに気づかせてくれた本でした。
時間をかけてじっくり味わってきたつもりですが
まだまだ血と肉となっていない気はします。
生活の中で日々実践し、
みことばに生かされることの体験を
積み重ねていくこと。
主のみわざが
祈る私たちを通して実現していくこと、
それを目撃し続けること。
これが本当の意味で
『ラディカル』の先にある姿かなと思います。
ともあれ、
みことばを読み、祈り、ささげること。
この実践を
小さな一歩から続けたいと思います。
祈りの輪を広げること、ですね。
来週からは、
がっつりと聖書を読み込んでいこうと思います。
聖書を土台にした特定のテーマ別に
これまで本を読んできましたが、
聖書の基づいた考えは正確な理解からですので、
次からは聖書そのものを
深く味わっていこうと考えています。
とはいえ注解書を足がかりにはしますが、
メインディッシュは聖書です。
分量的な事情から、
ヘブル人への手紙を扱うことにしました。
お楽しみに!
2017年3月26日日曜日
『ささえる交わりの恵み』菅原 豊 先生
2017年3月26日 第4主日礼拝
礼拝説教:菅原 豊 先生(白金キリスト教会 牧師)
聖書箇所:コリント人への手紙第二 8章1-7節
説教主題:『ささえる交わりの恵み』
招詞:コリント人への手紙第二 8章7b節
礼拝説教:菅原 豊 先生(白金キリスト教会 牧師)
聖書箇所:コリント人への手紙第二 8章1-7節
説教主題:『ささえる交わりの恵み』
招詞:コリント人への手紙第二 8章7b節
私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。
ラベル:
過去の説教音声
2017年3月25日土曜日
第4主日礼拝のお知らせ
2017年3月26日 第4主日礼拝
礼拝説教:菅原 豊 先生(白金キリスト教会 牧師)
聖書箇所:コリント人への手紙第二 8章1-7節
説教主題:『ささえる交わりの恵み』
招詞:コリント人への手紙第二 8章7b節
聖書のお話:『イエスの逮捕』
聖書箇所:ヨハネの福音書18章1~13節
暗唱聖句:ヨハネの福音書18章11節
礼拝説教:菅原 豊 先生(白金キリスト教会 牧師)
聖書箇所:コリント人への手紙第二 8章1-7節
説教主題:『ささえる交わりの恵み』
招詞:コリント人への手紙第二 8章7b節
私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。教会学校
聖書のお話:『イエスの逮捕』
聖書箇所:ヨハネの福音書18章1~13節
暗唱聖句:ヨハネの福音書18章11節
父がわたしに下さった杯を、
どうして飲まずにいられよう
ラベル:
礼拝のお知らせ
2017年3月21日火曜日
今日の青年会
毎週火曜の青年会。
今日も開催することができました。
いつもお祈りありがとうございます。
今日の学びは
『ラディカル』の第9章の2回目。
(先週がやや少なめだったので、
今日でやりきりたかったですが
予定変更で3分割にしました)
「ラディカルな実験
〜真逆の生活に向き合う一年間〜」でした。
先週の続きですが、
ラディカルな実験には5つあり、
1.全世界のために祈る
2.聖書全巻を通読する
3.自分のお金を特定の目的のために用いる。
4.一定の期間を別の場所で過ごす。
5.信仰共同体の増幅のために自分の生活をささげる。
今日は、3-4の部分を取り上げました。
簡単に言えば、
お金と時間をささげる、
ということです。
私たちはこの
「ささげる」ということを
日常的に曖昧にしているのではないか、
と思わされます。
2レプタ銅貨をささげたやもめのことが
つい脳裏をかすめるのですが、
余ったものを、気まぐれで差し出すことは
「ささげる」とは言いません。
「犠牲」を払うというのは痛みを伴うことで、
差し出しておいて痛くもかゆくもないなら
それは「犠牲」にはならず、
「ささげる」ことにはならないという指摘。
非常に重要だなと思いました。
というのも、
私たちは気がつけばついつい
時間にせよ、お金にせよ、
差し出して痛くもなんともない量しか
差し出さなくなってしまうからです。
痛みも何もなく、
ぼんやりとルーティンをこなしているだけ。
だから本当の意味で
「ささげる」ということを
真剣に考えないといけないなと思います。
カインとアベルの記事で、
神に受け入れられたささげものは
どちらだったか?ということを思います。
細かい表現を見比べると、
やはりアベルのささげものは
最善最上のものだったのがわかりますが、
そこには「犠牲」がありました。
そして、それが神に受け入れられたのです。
私たちの生活は確かに苦しいかもしれません。
あれこれと払いものがあって
したいことができない、
欲しいものが買えない。
忙しく、日曜日も疲労していて、
ちょっとは休みたい状況かもしれません。
けれども、
逆に言えばそういう状況こそ
たとえわずかでも「犠牲」を払う行為になるので
本当の意味での「ささげる」機会になりえます。
神様は私たちの
犠牲を払う「心」をご覧になる方です。
きっと、ささげる喜びで満たしてくださいます。
勇気をもってささげ、
神様に受け入れられる
喜びを体験したいものです。
かなりチャレンジングなテーマですが、
お金を「ささげる」こと、
取り組んでいけたらと思います。
また、4つめの
「一定の期間を別の場所で過ごす。」は、
本当に興味深い箇所でした。
著者の提案として1年の2%(約1週間)を、
福音を届けるために外国に出ていく、
という時間にあてたらどうか?というもの。
その2%が、残りの98%に大きな
好影響を及ぼすという報告が
著者の教会で毎週のようにあるという記事。
どんな福音伝道の実践があり、
主の御業が地に広がっていっているのかを
目の当たりにするかのような紹介で、
自分の教会でもしたいと思えるような
活動のヒントがありました。
(帰国した兄弟姉妹が、感動と情熱をもって
自分の住む地域でバイブルクラブを開催、
福音伝道に携わる人材を育成する会を組成、
など精力的な活動の様子がうかがえました)
福音伝道のためだけに外国に出て行くこと。
その地でどのような主のみわざを目撃したか。
その証を共有することで、
母教会ではどのような好循環が生まれるか。
次々と霊的な燃焼が広がっていくのが
簡単にイメージできます。
もちろん、はじめは
自分が今置かれている場こそ
神様に遣わされている場ですから、
家族、友人、地域、、、と
足元を固めることに注力すべきでしょう。
ですが、地元だけに閉鎖的になるのも
世界宣教命令と反するわけですから、
積極的に世界に心を向けたいものです。
世界のために祈る
この実践も続けていきたいと思います。
そのためにまず
福音の届いていない世界の事実を知ること。
この点をクリアして、世界のニーズを知り、
祈りを重ねていけたらと思います。
(来週から、一人ずつ
Operation WorldのPRAY TODAY
のコーナーを紹介してもらうことにしました。
世界の事実を知って、共有し、祈ります)
世界に福音伝道のために出かけていくことは、
無謀で狂気の沙汰かもしれません。
世の人から見たら完全におかしいわけですが、
本当の意味での生きる喜びに満ちた生き方だと
『ラディカル』を読んで気づかされます。
私たちが創造され、
この肉体に生かされている目的は何か?
と考える時、飲み食いのことで終わっていれば
心は虚しいわけです。
霊魂は枯れてしまいます。
たとえ貧しく不遇な目に遭い死んだとしても、
創造主の呼びかけに応答すること以上に
素晴らしい人生はありえないと断言する歩み。
そのようにして得られる
徹底的なキリスト者としての祝福を、
実践を通して体験し続けられたらと願います。
今日も開催することができました。
いつもお祈りありがとうございます。
今日の学びは
『ラディカル』の第9章の2回目。
(先週がやや少なめだったので、
今日でやりきりたかったですが
予定変更で3分割にしました)
「ラディカルな実験
〜真逆の生活に向き合う一年間〜」でした。
先週の続きですが、
ラディカルな実験には5つあり、
1.全世界のために祈る
2.聖書全巻を通読する
3.自分のお金を特定の目的のために用いる。
4.一定の期間を別の場所で過ごす。
5.信仰共同体の増幅のために自分の生活をささげる。
今日は、3-4の部分を取り上げました。
簡単に言えば、
お金と時間をささげる、
ということです。
私たちはこの
「ささげる」ということを
日常的に曖昧にしているのではないか、
と思わされます。
2レプタ銅貨をささげたやもめのことが
つい脳裏をかすめるのですが、
余ったものを、気まぐれで差し出すことは
「ささげる」とは言いません。
「犠牲」を払うというのは痛みを伴うことで、
差し出しておいて痛くもかゆくもないなら
それは「犠牲」にはならず、
「ささげる」ことにはならないという指摘。
非常に重要だなと思いました。
というのも、
私たちは気がつけばついつい
時間にせよ、お金にせよ、
差し出して痛くもなんともない量しか
差し出さなくなってしまうからです。
痛みも何もなく、
ぼんやりとルーティンをこなしているだけ。
だから本当の意味で
「ささげる」ということを
真剣に考えないといけないなと思います。
カインとアベルの記事で、
神に受け入れられたささげものは
どちらだったか?ということを思います。
細かい表現を見比べると、
やはりアベルのささげものは
最善最上のものだったのがわかりますが、
そこには「犠牲」がありました。
そして、それが神に受け入れられたのです。
私たちの生活は確かに苦しいかもしれません。
あれこれと払いものがあって
したいことができない、
欲しいものが買えない。
忙しく、日曜日も疲労していて、
ちょっとは休みたい状況かもしれません。
けれども、
逆に言えばそういう状況こそ
たとえわずかでも「犠牲」を払う行為になるので
本当の意味での「ささげる」機会になりえます。
神様は私たちの
犠牲を払う「心」をご覧になる方です。
きっと、ささげる喜びで満たしてくださいます。
勇気をもってささげ、
神様に受け入れられる
喜びを体験したいものです。
かなりチャレンジングなテーマですが、
お金を「ささげる」こと、
取り組んでいけたらと思います。
また、4つめの
「一定の期間を別の場所で過ごす。」は、
本当に興味深い箇所でした。
著者の提案として1年の2%(約1週間)を、
福音を届けるために外国に出ていく、
という時間にあてたらどうか?というもの。
その2%が、残りの98%に大きな
好影響を及ぼすという報告が
著者の教会で毎週のようにあるという記事。
どんな福音伝道の実践があり、
主の御業が地に広がっていっているのかを
目の当たりにするかのような紹介で、
自分の教会でもしたいと思えるような
活動のヒントがありました。
(帰国した兄弟姉妹が、感動と情熱をもって
自分の住む地域でバイブルクラブを開催、
福音伝道に携わる人材を育成する会を組成、
など精力的な活動の様子がうかがえました)
福音伝道のためだけに外国に出て行くこと。
その地でどのような主のみわざを目撃したか。
その証を共有することで、
母教会ではどのような好循環が生まれるか。
次々と霊的な燃焼が広がっていくのが
簡単にイメージできます。
もちろん、はじめは
自分が今置かれている場こそ
神様に遣わされている場ですから、
家族、友人、地域、、、と
足元を固めることに注力すべきでしょう。
ですが、地元だけに閉鎖的になるのも
世界宣教命令と反するわけですから、
積極的に世界に心を向けたいものです。
世界のために祈る
この実践も続けていきたいと思います。
そのためにまず
福音の届いていない世界の事実を知ること。
この点をクリアして、世界のニーズを知り、
祈りを重ねていけたらと思います。
(来週から、一人ずつ
Operation WorldのPRAY TODAY
のコーナーを紹介してもらうことにしました。
世界の事実を知って、共有し、祈ります)
世界に福音伝道のために出かけていくことは、
無謀で狂気の沙汰かもしれません。
世の人から見たら完全におかしいわけですが、
本当の意味での生きる喜びに満ちた生き方だと
『ラディカル』を読んで気づかされます。
私たちが創造され、
この肉体に生かされている目的は何か?
と考える時、飲み食いのことで終わっていれば
心は虚しいわけです。
霊魂は枯れてしまいます。
たとえ貧しく不遇な目に遭い死んだとしても、
創造主の呼びかけに応答すること以上に
素晴らしい人生はありえないと断言する歩み。
そのようにして得られる
徹底的なキリスト者としての祝福を、
実践を通して体験し続けられたらと願います。
ラベル:
青年会
2017年3月19日日曜日
『イエス様が教えてくださった祈り』松尾 献 先生
2017年3月19日 第3主日礼拝
礼拝説教:松尾 献 先生(KGK九州地区主事)
聖書箇所:ルカの福音書11章1-4節
説教主題:『イエス様が教えてくださった祈り』
招詞:ルカの福音書11章1b節
礼拝説教:松尾 献 先生(KGK九州地区主事)
聖書箇所:ルカの福音書11章1-4節
説教主題:『イエス様が教えてくださった祈り』
招詞:ルカの福音書11章1b節
弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
ラベル:
過去の説教音声
2017年3月17日金曜日
第3主日礼拝のお知らせ
2017年3月19日 第3主日礼拝
礼拝説教:松尾 献 先生(KGK九州地区主事)
聖書箇所:ルカの福音書11章1-4節
説教主題:『イエス様が教えてくださった祈り』
招詞:ルカの福音書11章1b節
聖書のお話:『エルサレム入城』
聖書箇所:ヨハネの福音書12章12~19節
暗唱聖句:ヨハネの福音書12章13節
礼拝説教:松尾 献 先生(KGK九州地区主事)
聖書箇所:ルカの福音書11章1-4節
説教主題:『イエス様が教えてくださった祈り』
招詞:ルカの福音書11章1b節
弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」教会学校
聖書のお話:『エルサレム入城』
聖書箇所:ヨハネの福音書12章12~19節
暗唱聖句:ヨハネの福音書12章13節
ホサナ。祝福あれ。
主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。
ラベル:
礼拝のお知らせ
2017年3月15日水曜日
今日の青年会
毎週火曜の青年会。
今日は特別な会になりました。
というのも、兵庫、福岡、東京、、、と
熊本にボランティアでこられていた青年たちが合流して、
交わりを兼ねて、食事と学びとを共にしました。
中にはブログを読んでくださって来られた方もいて、
いつも3倍くらいの人数で、
しかも若者ばかりで非常に熱のある時間でした。
特に、それぞれの教会の
霊的な課題をシェアし、祈れたことは大きい。
このようなつながりを現実で確認するとき、
同じキリストの体に生かされているんだな、と感じます。
同じように救われ、
同じように神様の器として用いられ、
励まし合い、叱咤し合い、
お互いがお互いを生かし合っていく関係。
初めて会った人であっても、
同じ神の家族であるという認識は
大きな安心感と喜びをもたらします。
特に、熊本地震があって、
痛み、傷付いた人のために
何かに役立ちたいという思い。
そんな思いで来ていただいたというだけで
本当に、ありがたいな、と思います。
それにも増して、
同じ場で祈り合えたことが、
本当に、感謝なことでした。
……
今日の学びは
『ラディカル』の第9章の前半。
「ラディカルな実験〜真逆の生活に向き合う一年間〜」でした。
これまで、本書を通してさまざまな問いかけを受けてきましたが、
常々思わされて来たのが、
「一体何から始めたらいいのか?」
ということでした。
モノもおカネもいのちも、
すべて神様にお返しして、神の国の働き人として生きる。
それがこの世のどんな成功、幸福よりも、
何よりも素晴らしく価値がある。
…と学んできたのはいいものの、
活字で読んだからといって
それがすぐに実践をするだけの動機にはなりにくわけです。
私たちの生活は、
この瞬間瞬間絶えず目の前にあるので、
聖書を閉じた瞬間、祈りが終わった瞬間、
まったく神の国のことなど考えなくなってしまう状況に囲い込まれています。
だからこそ、
何から始めたらいいのか。
この世的な引力に抗うには、
何から手をつけたらいいのか。
…それらの一つの回答が9章(最終章)、
「ラディカルな実験」の主旨だろうと思います。
世界宣教へと力強く招き続ける『ラディカル』という本は、
味を薄めて聖書を読んでしまう私たちにこそ必要な処方箋でした。
聖書に、確かにはっきり、
世界に福音を述べ伝えるべきことが書かれているのに、
私たちは、重荷を軽くしてくださるイエスさま、と
自分がラクになるようにしか読み取ろうとしない癖があります。
だから、改めて、
世界に出て行くべきことを思わされる本なのです。
そのような主旨で、今日のまとめを読めば、
やはり、祈ることも、みことばを読むことも
世界に福音を述べ伝えていくためなのだなと理解できます。
…祈りといえば、
今日学んだところで興味深かったのは、
“Operation World” という本の存在です。
(参加していた夙川聖書教会の方に聞くと、
何名か読んだことがあるとのこと、これも驚きでした。
当然読んでおくべき本だということだと感じます。)
どのような本かというと、
世界のすべての国の宗教事情、福音宣教の働きの最新情報、
祈りのリクエストなどの情報が記載されているもの。
つまり、どこでどのような霊的困難があるのか。
どこに福音が伝わっていないのか。
どこに私たちは出て行くべきなのか。
それ以上に、何を祈るべきなのか。
それがハッキリと記されている本なのです。
(web サイトも公開されており、全リソースが入手可能)
http://www.operationworld.org)
ルカの福音書10章2節の
「実りは多いが、働き手が少ない。
だから、収穫の主に、収穫のための
働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
という箇所。
私たちの祈りは、
ほとんどが自分自身に関わることで占められています。
自分と、家族と、教会と、、、
余力があれば地域のこと、日本のこと、、、
と少しずつ広げはしますが、
世界のためにはほとんど祈れていないのが現実だと思います。
というより、
行った事もなく、
地名も民族も、文化も社会も知らない国。
イメージすらできない国のために
祈ることはほとんど無理なのです。
だから、知らないといけない。
もっと、世界に自分をプッシュしていかないといけない。
世界のために祈ることも
主にあるチャレンジなので、
是非、世界を知り、祈っていかなければと思わされました。
Operation Worldなどを活用して、
自分の身の回りのことだけでなく、
世界のために祈ること。
大きなチャレンジでしょうが、
やりがいも同時にあることでしょう。
一緒にやりましょう。
目に見える結果を、
自分の喜ぶ祈りの結果を安易に求めてしまう私たちですから、
自分が満足する結果のために祈るのではなく、
約束の成就を生きている間に体験しえなかったアブラハムのように、
神の国の働きに関われること、そのものに喜びをもって
祈っていけたらと思わされます。
また、今日の「ラディカルな実験」の第二項、
聖書を通読する、ということも
あまり重きを置いていなかったなと反省させられます。
昨今様々な信仰関連書が出版されていますが、
やはり大事なの、聖書そのもの。
どんなガイドブックも解釈本も、
聖書にはかないません。
レビ記も民数記も、その他の書簡も、
たとい難解だろうと、
それが神様から人類に送られているメッセージだとするなら、
また、神の子とされているなら、
読まずにはいられないのではないでしょうか。
わからないから、むずかしいから、
そもそも私はユダヤ人じゃないから、
古代と現代とは文化が違うから、、
…と、敬遠し拒む理由はいくらでもありますが、
神様の言葉をちゃんと味わおうとしているか?
という姿勢が問われているのだと思うのです。
また、普段読んでいたとしても、
通読する中で、それが神様からの言葉だと
真摯に受け止める実践を
新たにしていきたいと思わされました。
….
今日は、多くの主にある兄弟姉妹と共に過ごし、
本当に楽しく、祝福されたひとときとなりました!
今日は特別な会になりました。
というのも、兵庫、福岡、東京、、、と
熊本にボランティアでこられていた青年たちが合流して、
交わりを兼ねて、食事と学びとを共にしました。
中にはブログを読んでくださって来られた方もいて、
いつも3倍くらいの人数で、
しかも若者ばかりで非常に熱のある時間でした。
特に、それぞれの教会の
霊的な課題をシェアし、祈れたことは大きい。
このようなつながりを現実で確認するとき、
同じキリストの体に生かされているんだな、と感じます。
同じように救われ、
同じように神様の器として用いられ、
励まし合い、叱咤し合い、
お互いがお互いを生かし合っていく関係。
初めて会った人であっても、
同じ神の家族であるという認識は
大きな安心感と喜びをもたらします。
特に、熊本地震があって、
痛み、傷付いた人のために
何かに役立ちたいという思い。
そんな思いで来ていただいたというだけで
本当に、ありがたいな、と思います。
それにも増して、
同じ場で祈り合えたことが、
本当に、感謝なことでした。
……
今日の学びは
『ラディカル』の第9章の前半。
「ラディカルな実験〜真逆の生活に向き合う一年間〜」でした。
これまで、本書を通してさまざまな問いかけを受けてきましたが、
常々思わされて来たのが、
「一体何から始めたらいいのか?」
ということでした。
モノもおカネもいのちも、
すべて神様にお返しして、神の国の働き人として生きる。
それがこの世のどんな成功、幸福よりも、
何よりも素晴らしく価値がある。
…と学んできたのはいいものの、
活字で読んだからといって
それがすぐに実践をするだけの動機にはなりにくわけです。
私たちの生活は、
この瞬間瞬間絶えず目の前にあるので、
聖書を閉じた瞬間、祈りが終わった瞬間、
まったく神の国のことなど考えなくなってしまう状況に囲い込まれています。
だからこそ、
何から始めたらいいのか。
この世的な引力に抗うには、
何から手をつけたらいいのか。
…それらの一つの回答が9章(最終章)、
「ラディカルな実験」の主旨だろうと思います。
世界宣教へと力強く招き続ける『ラディカル』という本は、
味を薄めて聖書を読んでしまう私たちにこそ必要な処方箋でした。
聖書に、確かにはっきり、
世界に福音を述べ伝えるべきことが書かれているのに、
私たちは、重荷を軽くしてくださるイエスさま、と
自分がラクになるようにしか読み取ろうとしない癖があります。
だから、改めて、
世界に出て行くべきことを思わされる本なのです。
そのような主旨で、今日のまとめを読めば、
やはり、祈ることも、みことばを読むことも
世界に福音を述べ伝えていくためなのだなと理解できます。
…祈りといえば、
今日学んだところで興味深かったのは、
“Operation World” という本の存在です。
(参加していた夙川聖書教会の方に聞くと、
何名か読んだことがあるとのこと、これも驚きでした。
当然読んでおくべき本だということだと感じます。)
どのような本かというと、
世界のすべての国の宗教事情、福音宣教の働きの最新情報、
祈りのリクエストなどの情報が記載されているもの。
つまり、どこでどのような霊的困難があるのか。
どこに福音が伝わっていないのか。
どこに私たちは出て行くべきなのか。
それ以上に、何を祈るべきなのか。
それがハッキリと記されている本なのです。
(web サイトも公開されており、全リソースが入手可能)
http://www.operationworld.org)
ルカの福音書10章2節の
「実りは多いが、働き手が少ない。
だから、収穫の主に、収穫のための
働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
という箇所。
私たちの祈りは、
ほとんどが自分自身に関わることで占められています。
自分と、家族と、教会と、、、
余力があれば地域のこと、日本のこと、、、
と少しずつ広げはしますが、
世界のためにはほとんど祈れていないのが現実だと思います。
というより、
行った事もなく、
地名も民族も、文化も社会も知らない国。
イメージすらできない国のために
祈ることはほとんど無理なのです。
だから、知らないといけない。
もっと、世界に自分をプッシュしていかないといけない。
世界のために祈ることも
主にあるチャレンジなので、
是非、世界を知り、祈っていかなければと思わされました。
Operation Worldなどを活用して、
自分の身の回りのことだけでなく、
世界のために祈ること。
大きなチャレンジでしょうが、
やりがいも同時にあることでしょう。
一緒にやりましょう。
目に見える結果を、
自分の喜ぶ祈りの結果を安易に求めてしまう私たちですから、
自分が満足する結果のために祈るのではなく、
約束の成就を生きている間に体験しえなかったアブラハムのように、
神の国の働きに関われること、そのものに喜びをもって
祈っていけたらと思わされます。
また、今日の「ラディカルな実験」の第二項、
聖書を通読する、ということも
あまり重きを置いていなかったなと反省させられます。
昨今様々な信仰関連書が出版されていますが、
やはり大事なの、聖書そのもの。
どんなガイドブックも解釈本も、
聖書にはかないません。
レビ記も民数記も、その他の書簡も、
たとい難解だろうと、
それが神様から人類に送られているメッセージだとするなら、
また、神の子とされているなら、
読まずにはいられないのではないでしょうか。
わからないから、むずかしいから、
そもそも私はユダヤ人じゃないから、
古代と現代とは文化が違うから、、
…と、敬遠し拒む理由はいくらでもありますが、
神様の言葉をちゃんと味わおうとしているか?
という姿勢が問われているのだと思うのです。
また、普段読んでいたとしても、
通読する中で、それが神様からの言葉だと
真摯に受け止める実践を
新たにしていきたいと思わされました。
….
今日は、多くの主にある兄弟姉妹と共に過ごし、
本当に楽しく、祝福されたひとときとなりました!
2017年3月12日日曜日
『最初の光、とこしえの光』原口 泉 先生
2017年3月12日 第2主日礼拝
礼拝説教:原口 泉 先生(鹿本キリスト教会 牧師)
聖書箇所:使徒の働き 26章1~23節
説教主題:『最初の光、とこしえの光』
招詞:使徒の働き 26章23節
礼拝説教:原口 泉 先生(鹿本キリスト教会 牧師)
聖書箇所:使徒の働き 26章1~23節
説教主題:『最初の光、とこしえの光』
招詞:使徒の働き 26章23節
すなわち、キリストは苦しみを受けること、
また、死者の中からの復活によって、
この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。
ラベル:
過去の説教音声
2017年3月11日土曜日
第2主日礼拝のお知らせ
2017年3月12日 第2主日礼拝
礼拝説教:原口 泉 先生(鹿本キリスト教会 牧師)
聖書箇所:使徒の働き 26章1~23節
説教主題:『最初の光、とこしえの光』
招詞:使徒の働き 26章23節
教会学校
聖書のお話:『香油注ぎ』
聖書箇所:ヨハネの福音書12章1~8節
暗唱聖句:マルコの福音書14章8節
礼拝説教:原口 泉 先生(鹿本キリスト教会 牧師)
聖書箇所:使徒の働き 26章1~23節
説教主題:『最初の光、とこしえの光』
招詞:使徒の働き 26章23節
すなわち、キリストは苦しみを受けること、
また、死者の中からの復活によって、
この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。
教会学校
聖書のお話:『香油注ぎ』
聖書箇所:ヨハネの福音書12章1~8節
暗唱聖句:マルコの福音書14章8節
この女は、自分にできることをしたのです。
埋葬の用意にと、わたしのからだに、
前もって油を塗ってくれたのです。
ラベル:
礼拝のお知らせ
2017年3月8日水曜日
今日の青年会
毎週火曜の青年会。
今日も無事に開催できました!
いつもお祈りありがとうございます。
今日は『ラディカル』の第8章。
「死ぬことが益である時に生きる〜革新的な生活の危険と報い〜」でした。
死ぬことがかえって生きることになる、
という逆説的な真理を私たちはみことばを通して、すでに聞いて、頷いています。
ですが、本当に、文字どおり「死ぬ」ということについては考えが浅いのではないでしょうか。
自分が死ぬなんて想像もできない。
まして、何かのために死ぬなんて、それ以上に考えもつかない。
…これが現実でしょう。
当然、今の日本社会では命の危険というものはほとんどなく、
ドラマか小説か、映画か漫画、「死」に触れる機会がほとんどありません。
というより、ケガ以外で血すら見ることがありません。
スーパーに売られているお肉も、殺され、血が流れたはずですが、
その工程が省略されているので、「死」というものに向き合う頻度が減っています。
だからこそ、近しい人の死が非常に重く突然ふりかかると、
耐性がないため大きな痛みが伴います。
生きるとは、死ぬことでもあるという、
ごく自然の営みであるのに。
(聖書的理解では、罪の結果としての死、ですが。
言ってみれば、罪から目をそらしているわけです)
私たちは真理から遠いところで、
リアリティのない暮らしをしているわけです。
一方、イエスがマタイの福音書10章で語る
狼のいるところに羊を送り出すというたとえには、
なまぬるさが一切ありません。
初めから、裏切りと迫害と死を前提としています。
それがキリストにあって生きることだというのです。
けれどもそれは私たちにとって、あまりにも現実離れしているため、
どうしてもピンときません。
キリスト者として生きるのは、
平和で、愛に満ちていて、安心で、安全である、、、のではないの?
…と、耳の痛い話はどうしても記憶に残りません。
むしろどんな風にすれば
裏切りと迫害と死が迫ってくるのか。
この日本でどんな振る舞いをすれば殺されるのか。想像もつかない。。
そのような迫害、一度も経験したことないし、
少なくとも自分の周りでそんな「事件」は起こったこともない。
キリストは、福音伝道は
本来は死に至るほどのことである、と示されていますが、
私たちの教会生活はどうでしょうか。
命を差し出すほどの重みで礼拝しているでしょうか。
文字どおり命を賭して、
弾圧と迫害と殺戮とを恐れずに信仰を守ってきた方々の歴史が、
私たちが受け取っている福音には刻まれています。
この2000年の間に、どれほどの弾圧があったか、
また、現在も、自由に聖書に触れられない
福音の届かない国があるか。
このことに、安全地帯にいる私たちは
ほとんど無感覚です。
今日の第8章では、
様々な事例の紹介がありましたが、
私たちの過ごしている世界とは、まったくの別世界です。
人食い人種のいた国に福音伝道の召しを受け、
殺され、食べられてしまった19世紀の宣教師の話。
自分の部族以外の人間を無差別に殺害する
インディアンのある一族に宣教に臨み、殺された話。
イスラム教からキリスト教に改宗したため、
実の両親に毒を盛られて殺された話。
…などなど、想像の域を出ない、
まったく現実感覚が追いつかない話ばかりです。
いや、実はキリスト教の歴史は
初めからずっとそうだったのだと聞いています。
今、私たちが
そういう現実を見なくても過ごせる安全地帯にいるため、
死と隣り合わせの生き方であることが理解できないわけです。
神の国とその義とを第一とする。
神の国の相続者として、神の子として、この地を歩む。
たましいを滅せない人を恐れない。
…など、聞き覚えのある約束は
言葉として掴んではいるかもしれませんが、
いざ、キリストが命じられたような仕方で、
命の危険を冒してまで伝道をしているかといえば、
現実はそうはいかないよと避けているような気がします。
おとぎ話とは違うんだ、と。
本当の意味で、本気で、この肉体ある人生よりも
天の御国の一員であることを喜びとして、
死をも恐れずに歩んでいるかといえば、
それとは逆で、まったくこの世的に生きているなと思わされました。
読み進めるたびに、
「そうはいっても。。」
という自分との葛藤が起きるわけです。
私はクリスチャン、だと言いながらも
この世的な成功や安定、保証によりかかって
心の余った部分を最後にちょっと神様に、、ハレルヤ!
というだけで、自分基準で良しとしていたのです。
マタイの福音書10章が、
実はあまりに過激な内容であるのに気づかないほど、
私たちはみことばと距離を置いてしまっています。
肉親から裏切られ、憎まれる。
親、兄弟、子が、イエスの名のために迫害してくる。
そのようなことが、
キリストに従う者にはつきものだと描かれています。
….普通の感覚であれば、
そんなの割に合わないでしょう。
なんのためにクリスチャンになるのかと。
信じても、迫害され、殺される。
一切メリットを感じないようなものなのに、
初代教会から300年間、
初期のキリスト者たちは迫害を耐え忍びました。
それは、肉体以上の、
永遠の命を、文字どおり信じ、味わい、喜んでいたからでしょう。
信じたら天国行きだよ。
という程度のカジュアルな話ではなく、
実際に命と引き換えにまでして握って離さなかったもの。
それが、今、私たちが手にしている福音です。
この、血の染み込んだ福音。
イエスの死と復活を、
命をかけたリアリティで味わえないものか、と思わされます。
遊びじゃなく、命がけなんだ、と言える信仰。
命をかけても惜しくない、
素晴らしい、永遠の祝福と
神の国の一員となる栄光。
聖書の約束が、この世の生活以上の素晴らしさに満ちている、
と信じる信仰が与えられるように、と祈ります。
今回も、『ラディカル』から
非常に重たい問いかけがありました。
他人事として読み飛ばしてしまっていたみことばが、
名指しで私たちに迫ってくるかのようでした。
毎回心に大きな釘がうたれるかのような重みがありますが、
第8章も、「あなたは私に従うか?」と呼びかけがあったように感じます。
今日も無事に開催できました!
いつもお祈りありがとうございます。
今日は『ラディカル』の第8章。
「死ぬことが益である時に生きる〜革新的な生活の危険と報い〜」でした。
死ぬことがかえって生きることになる、
という逆説的な真理を私たちはみことばを通して、すでに聞いて、頷いています。
ですが、本当に、文字どおり「死ぬ」ということについては考えが浅いのではないでしょうか。
自分が死ぬなんて想像もできない。
まして、何かのために死ぬなんて、それ以上に考えもつかない。
…これが現実でしょう。
当然、今の日本社会では命の危険というものはほとんどなく、
ドラマか小説か、映画か漫画、「死」に触れる機会がほとんどありません。
というより、ケガ以外で血すら見ることがありません。
スーパーに売られているお肉も、殺され、血が流れたはずですが、
その工程が省略されているので、「死」というものに向き合う頻度が減っています。
だからこそ、近しい人の死が非常に重く突然ふりかかると、
耐性がないため大きな痛みが伴います。
生きるとは、死ぬことでもあるという、
ごく自然の営みであるのに。
(聖書的理解では、罪の結果としての死、ですが。
言ってみれば、罪から目をそらしているわけです)
私たちは真理から遠いところで、
リアリティのない暮らしをしているわけです。
一方、イエスがマタイの福音書10章で語る
狼のいるところに羊を送り出すというたとえには、
なまぬるさが一切ありません。
初めから、裏切りと迫害と死を前提としています。
それがキリストにあって生きることだというのです。
けれどもそれは私たちにとって、あまりにも現実離れしているため、
どうしてもピンときません。
キリスト者として生きるのは、
平和で、愛に満ちていて、安心で、安全である、、、のではないの?
…と、耳の痛い話はどうしても記憶に残りません。
むしろどんな風にすれば
裏切りと迫害と死が迫ってくるのか。
この日本でどんな振る舞いをすれば殺されるのか。想像もつかない。。
そのような迫害、一度も経験したことないし、
少なくとも自分の周りでそんな「事件」は起こったこともない。
キリストは、福音伝道は
本来は死に至るほどのことである、と示されていますが、
私たちの教会生活はどうでしょうか。
命を差し出すほどの重みで礼拝しているでしょうか。
文字どおり命を賭して、
弾圧と迫害と殺戮とを恐れずに信仰を守ってきた方々の歴史が、
私たちが受け取っている福音には刻まれています。
この2000年の間に、どれほどの弾圧があったか、
また、現在も、自由に聖書に触れられない
福音の届かない国があるか。
このことに、安全地帯にいる私たちは
ほとんど無感覚です。
今日の第8章では、
様々な事例の紹介がありましたが、
私たちの過ごしている世界とは、まったくの別世界です。
人食い人種のいた国に福音伝道の召しを受け、
殺され、食べられてしまった19世紀の宣教師の話。
自分の部族以外の人間を無差別に殺害する
インディアンのある一族に宣教に臨み、殺された話。
イスラム教からキリスト教に改宗したため、
実の両親に毒を盛られて殺された話。
…などなど、想像の域を出ない、
まったく現実感覚が追いつかない話ばかりです。
いや、実はキリスト教の歴史は
初めからずっとそうだったのだと聞いています。
今、私たちが
そういう現実を見なくても過ごせる安全地帯にいるため、
死と隣り合わせの生き方であることが理解できないわけです。
神の国とその義とを第一とする。
神の国の相続者として、神の子として、この地を歩む。
たましいを滅せない人を恐れない。
…など、聞き覚えのある約束は
言葉として掴んではいるかもしれませんが、
いざ、キリストが命じられたような仕方で、
命の危険を冒してまで伝道をしているかといえば、
現実はそうはいかないよと避けているような気がします。
おとぎ話とは違うんだ、と。
本当の意味で、本気で、この肉体ある人生よりも
天の御国の一員であることを喜びとして、
死をも恐れずに歩んでいるかといえば、
それとは逆で、まったくこの世的に生きているなと思わされました。
読み進めるたびに、
「そうはいっても。。」
という自分との葛藤が起きるわけです。
私はクリスチャン、だと言いながらも
この世的な成功や安定、保証によりかかって
心の余った部分を最後にちょっと神様に、、ハレルヤ!
というだけで、自分基準で良しとしていたのです。
マタイの福音書10章が、
実はあまりに過激な内容であるのに気づかないほど、
私たちはみことばと距離を置いてしまっています。
肉親から裏切られ、憎まれる。
親、兄弟、子が、イエスの名のために迫害してくる。
そのようなことが、
キリストに従う者にはつきものだと描かれています。
….普通の感覚であれば、
そんなの割に合わないでしょう。
なんのためにクリスチャンになるのかと。
信じても、迫害され、殺される。
一切メリットを感じないようなものなのに、
初代教会から300年間、
初期のキリスト者たちは迫害を耐え忍びました。
それは、肉体以上の、
永遠の命を、文字どおり信じ、味わい、喜んでいたからでしょう。
信じたら天国行きだよ。
という程度のカジュアルな話ではなく、
実際に命と引き換えにまでして握って離さなかったもの。
それが、今、私たちが手にしている福音です。
この、血の染み込んだ福音。
イエスの死と復活を、
命をかけたリアリティで味わえないものか、と思わされます。
遊びじゃなく、命がけなんだ、と言える信仰。
命をかけても惜しくない、
素晴らしい、永遠の祝福と
神の国の一員となる栄光。
聖書の約束が、この世の生活以上の素晴らしさに満ちている、
と信じる信仰が与えられるように、と祈ります。
今回も、『ラディカル』から
非常に重たい問いかけがありました。
他人事として読み飛ばしてしまっていたみことばが、
名指しで私たちに迫ってくるかのようでした。
毎回心に大きな釘がうたれるかのような重みがありますが、
第8章も、「あなたは私に従うか?」と呼びかけがあったように感じます。
2017年3月5日日曜日
『ボアズの配慮』豊世 武士 先生
2017年3月5日 第1主日礼拝
礼拝説教:豊世 武士 先生(熊本東聖書キリスト教会 牧師)
聖書箇所:ルツ記 2章14-17節
説教主題:『ボアズの配慮』
招詞:ルツ記 2章17節
礼拝説教:豊世 武士 先生(熊本東聖書キリスト教会 牧師)
聖書箇所:ルツ記 2章14-17節
説教主題:『ボアズの配慮』
招詞:ルツ記 2章17節
こうして彼女は、夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。
拾ったのを打つと、大麦が1エパほどあった。
ラベル:
過去の説教音声
2017年3月2日木曜日
第1主日礼拝のお知らせ
2017年3月5日 第1主日礼拝
礼拝説教:豊世 武士 先生(熊本東聖書キリスト教会 牧師)
聖書箇所:ルツ記 2章14-17節
説教主題:『ボアズの配慮』
招詞:ルツ記 2章17節
教会学校
聖書のお話:『宮きよめ』
聖書箇所:ヨハネの福音書2章13~25節
暗唱聖句:ヨハネの福音書14章6節
礼拝説教:豊世 武士 先生(熊本東聖書キリスト教会 牧師)
聖書箇所:ルツ記 2章14-17節
説教主題:『ボアズの配慮』
招詞:ルツ記 2章17節
こうして彼女は、夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。
拾ったのを打つと、大麦が1エパほどあった。
教会学校
聖書のお話:『宮きよめ』
聖書箇所:ヨハネの福音書2章13~25節
暗唱聖句:ヨハネの福音書14章6節
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです
ラベル:
礼拝のお知らせ