熊本北聖書キリスト教会

熊本北聖書キリスト教会

2017年3月8日水曜日

今日の青年会

毎週火曜の青年会。
 
今日も無事に開催できました!
 
いつもお祈りありがとうございます。
 
  
今日は『ラディカル』の第8章。
 
「死ぬことが益である時に生きる〜革新的な生活の危険と報い〜」でした。
 
 
死ぬことがかえって生きることになる、
 
という逆説的な真理を私たちはみことばを通して、すでに聞いて、頷いています。
 
ですが、本当に、文字どおり「死ぬ」ということについては考えが浅いのではないでしょうか。
 
自分が死ぬなんて想像もできない。
まして、何かのために死ぬなんて、それ以上に考えもつかない。
…これが現実でしょう。
 
当然、今の日本社会では命の危険というものはほとんどなく、
ドラマか小説か、映画か漫画、「死」に触れる機会がほとんどありません。

というより、ケガ以外で血すら見ることがありません。
スーパーに売られているお肉も、殺され、血が流れたはずですが、
その工程が省略されているので、「死」というものに向き合う頻度が減っています。
 
だからこそ、近しい人の死が非常に重く突然ふりかかると、
耐性がないため大きな痛みが伴います。
 
生きるとは、死ぬことでもあるという、
ごく自然の営みであるのに。
(聖書的理解では、罪の結果としての死、ですが。
 言ってみれば、罪から目をそらしているわけです)
 
私たちは真理から遠いところで、
リアリティのない暮らしをしているわけです。
 
 
一方、イエスがマタイの福音書10章で語る
狼のいるところに羊を送り出すというたとえには、
なまぬるさが一切ありません。
 
初めから、裏切りと迫害と死を前提としています。
 
それがキリストにあって生きることだというのです。
 
けれどもそれは私たちにとって、あまりにも現実離れしているため、
どうしてもピンときません。

キリスト者として生きるのは、
平和で、愛に満ちていて、安心で、安全である、、、のではないの?
…と、耳の痛い話はどうしても記憶に残りません。
 
むしろどんな風にすれば
裏切りと迫害と死が迫ってくるのか。
この日本でどんな振る舞いをすれば殺されるのか。想像もつかない。。
 
そのような迫害、一度も経験したことないし、
少なくとも自分の周りでそんな「事件」は起こったこともない。
 
 
 

キリストは、福音伝道は
本来は死に至るほどのことである、と示されていますが、
私たちの教会生活はどうでしょうか。
 
命を差し出すほどの重みで礼拝しているでしょうか。
 
 
文字どおり命を賭して、
弾圧と迫害と殺戮とを恐れずに信仰を守ってきた方々の歴史が、
私たちが受け取っている福音には刻まれています。
 
この2000年の間に、どれほどの弾圧があったか、
また、現在も、自由に聖書に触れられない
福音の届かない国があるか。
 
このことに、安全地帯にいる私たちは
ほとんど無感覚です。
 
 
 
今日の第8章では、
様々な事例の紹介がありましたが、
私たちの過ごしている世界とは、まったくの別世界です。
 
人食い人種のいた国に福音伝道の召しを受け、
殺され、食べられてしまった19世紀の宣教師の話。
 
自分の部族以外の人間を無差別に殺害する
インディアンのある一族に宣教に臨み、殺された話。
 
イスラム教からキリスト教に改宗したため、
実の両親に毒を盛られて殺された話。
 
…などなど、想像の域を出ない、
まったく現実感覚が追いつかない話ばかりです。
 
いや、実はキリスト教の歴史は
初めからずっとそうだったのだと聞いています。
 
今、私たちが
そういう現実を見なくても過ごせる安全地帯にいるため、
死と隣り合わせの生き方であることが理解できないわけです。
 
 
神の国とその義とを第一とする。
神の国の相続者として、神の子として、この地を歩む。
たましいを滅せない人を恐れない。
 
…など、聞き覚えのある約束は
言葉として掴んではいるかもしれませんが、
いざ、キリストが命じられたような仕方で、
命の危険を冒してまで伝道をしているかといえば、
現実はそうはいかないよと避けているような気がします。
おとぎ話とは違うんだ、と。
 
 
本当の意味で、本気で、この肉体ある人生よりも
天の御国の一員であることを喜びとして、
死をも恐れずに歩んでいるかといえば、
それとは逆で、まったくこの世的に生きているなと思わされました。
 

読み進めるたびに、
「そうはいっても。。」
という自分との葛藤が起きるわけです。
 
私はクリスチャン、だと言いながらも
この世的な成功や安定、保証によりかかって
心の余った部分を最後にちょっと神様に、、ハレルヤ!
というだけで、自分基準で良しとしていたのです。
 
 
 
マタイの福音書10章が、
実はあまりに過激な内容であるのに気づかないほど、
私たちはみことばと距離を置いてしまっています。
 
 
肉親から裏切られ、憎まれる。
親、兄弟、子が、イエスの名のために迫害してくる。
 
そのようなことが、
キリストに従う者にはつきものだと描かれています。
 
 
….普通の感覚であれば、
そんなの割に合わないでしょう。
 
なんのためにクリスチャンになるのかと。
 
信じても、迫害され、殺される。
 
一切メリットを感じないようなものなのに、
初代教会から300年間、
初期のキリスト者たちは迫害を耐え忍びました。
 
それは、肉体以上の、
永遠の命を、文字どおり信じ、味わい、喜んでいたからでしょう。
 
 
信じたら天国行きだよ。
という程度のカジュアルな話ではなく、
実際に命と引き換えにまでして握って離さなかったもの。
 
それが、今、私たちが手にしている福音です。
 
 
この、血の染み込んだ福音。
イエスの死と復活を、
命をかけたリアリティで味わえないものか、と思わされます。
 
遊びじゃなく、命がけなんだ、と言える信仰。
 
命をかけても惜しくない、
素晴らしい、永遠の祝福と
神の国の一員となる栄光。
 
聖書の約束が、この世の生活以上の素晴らしさに満ちている、
と信じる信仰が与えられるように、と祈ります。
 
 
 
今回も、『ラディカル』から
非常に重たい問いかけがありました。
  
  
他人事として読み飛ばしてしまっていたみことばが、
名指しで私たちに迫ってくるかのようでした。
 

毎回心に大きな釘がうたれるかのような重みがありますが、
第8章も、「あなたは私に従うか?」と呼びかけがあったように感じます。
 

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