熊本北聖書キリスト教会

熊本北聖書キリスト教会

2017年3月21日火曜日

今日の青年会

毎週火曜の青年会。

今日も開催することができました。

いつもお祈りありがとうございます。

今日の学びは
『ラディカル』の第9章の2回目。
(先週がやや少なめだったので、
 今日でやりきりたかったですが
 予定変更で3分割にしました)
 
「ラディカルな実験
 〜真逆の生活に向き合う一年間〜」でした。

先週の続きですが、
ラディカルな実験には5つあり、

1.全世界のために祈る
2.聖書全巻を通読する
3.自分のお金を特定の目的のために用いる。
4.一定の期間を別の場所で過ごす。
5.信仰共同体の増幅のために自分の生活をささげる。


今日は、3-4の部分を取り上げました。


簡単に言えば、

お金と時間をささげる、

ということです。


私たちはこの
「ささげる」ということを
日常的に曖昧にしているのではないか、
と思わされます。

2レプタ銅貨をささげたやもめのことが
つい脳裏をかすめるのですが、
余ったものを、気まぐれで差し出すことは
「ささげる」とは言いません。

「犠牲」を払うというのは痛みを伴うことで、
差し出しておいて痛くもかゆくもないなら
それは「犠牲」にはならず、
「ささげる」ことにはならないという指摘。

非常に重要だなと思いました。

というのも、
私たちは気がつけばついつい
時間にせよ、お金にせよ、
差し出して痛くもなんともない量しか
差し出さなくなってしまうからです。

痛みも何もなく、
ぼんやりとルーティンをこなしているだけ。
だから本当の意味で
「ささげる」ということを
真剣に考えないといけないなと思います。



カインとアベルの記事で、
神に受け入れられたささげものは
どちらだったか?ということを思います。

細かい表現を見比べると、
やはりアベルのささげものは
最善最上のものだったのがわかりますが、
そこには「犠牲」がありました。

そして、それが神に受け入れられたのです。


私たちの生活は確かに苦しいかもしれません。

あれこれと払いものがあって
したいことができない、
欲しいものが買えない。

忙しく、日曜日も疲労していて、
ちょっとは休みたい状況かもしれません。

けれども、
逆に言えばそういう状況こそ
たとえわずかでも「犠牲」を払う行為になるので
本当の意味での「ささげる」機会になりえます。

神様は私たちの
犠牲を払う「心」をご覧になる方です。

きっと、ささげる喜びで満たしてくださいます。

勇気をもってささげ、
神様に受け入れられる
喜びを体験したいものです。



かなりチャレンジングなテーマですが、
お金を「ささげる」こと、
取り組んでいけたらと思います。




また、4つめの
「一定の期間を別の場所で過ごす。」は、
本当に興味深い箇所でした。

著者の提案として1年の2%(約1週間)を、
福音を届けるために外国に出ていく、
という時間にあてたらどうか?というもの。

その2%が、残りの98%に大きな
好影響を及ぼすという報告が
著者の教会で毎週のようにあるという記事。

どんな福音伝道の実践があり、
主の御業が地に広がっていっているのかを
目の当たりにするかのような紹介で、
自分の教会でもしたいと思えるような
活動のヒントがありました。

(帰国した兄弟姉妹が、感動と情熱をもって
 自分の住む地域でバイブルクラブを開催、
 福音伝道に携わる人材を育成する会を組成、
 など精力的な活動の様子がうかがえました)



福音伝道のためだけに外国に出て行くこと。
その地でどのような主のみわざを目撃したか。

その証を共有することで、
母教会ではどのような好循環が生まれるか。

次々と霊的な燃焼が広がっていくのが
簡単にイメージできます。


もちろん、はじめは
自分が今置かれている場こそ
神様に遣わされている場ですから、
家族、友人、地域、、、と
足元を固めることに注力すべきでしょう。

ですが、地元だけに閉鎖的になるのも
世界宣教命令と反するわけですから、
積極的に世界に心を向けたいものです。



世界のために祈る

この実践も続けていきたいと思います。

そのためにまず
福音の届いていない世界の事実を知ること。

この点をクリアして、世界のニーズを知り、
祈りを重ねていけたらと思います。

(来週から、一人ずつ
 Operation WorldのPRAY TODAY
 のコーナーを紹介してもらうことにしました。
 世界の事実を知って、共有し、祈ります)



世界に福音伝道のために出かけていくことは、
無謀で狂気の沙汰かもしれません。

世の人から見たら完全におかしいわけですが、
本当の意味での生きる喜びに満ちた生き方だと
『ラディカル』を読んで気づかされます。


私たちが創造され、
この肉体に生かされている目的は何か?

と考える時、飲み食いのことで終わっていれば
心は虚しいわけです。

霊魂は枯れてしまいます。



たとえ貧しく不遇な目に遭い死んだとしても、
創造主の呼びかけに応答すること以上に
素晴らしい人生はありえないと断言する歩み。

そのようにして得られる
徹底的なキリスト者としての祝福を、
実践を通して体験し続けられたらと願います。





0 件のコメント :

コメントを投稿