熊本北聖書キリスト教会

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2017年8月3日木曜日

今日の青年会

8月に入りました。 
 
夏真っ盛り、 
非常に暑くなっていますね。 
 
体力削られますので 
健康が支えられるように祈ります。 
 
 
 
今日も青年会では 
シュラッターのヘブル人への手紙講解 
を読み進めました。 
 
7~10章のテーマが 
イエスの祭司としての完全性なので、 
今日もその続きです。 
 
 
ヘブル書は旧新の比較を軸に 
論が展開されることが多いですが、 
今日読んだ9章も、 
わかりやすい構成でした。 
 
旧約聖書と新約聖書の違い。 
模造としての旧い契約と、 
大祭司イエスによる新しい契約。 
 
 
この章の最大の力点は、 
イエスの血の価値についてです。 
 
私たちが「血」と聞いて 
まずイメージするのは 
私たちの体内を駆け巡る赤い体液。 
 
物質としての「血」というイメージが 
先行してしまいます。 
 
そして、世の中の大多数が 
イエスの死を、額面通り 
一人の人が十字架で死んだ 
としか受け取りません。 
 
そこに何の価値も見出せないわけです。 
 
 
ですが、私たちの信仰は、 
このイエスの死にむしろ礎があります。 
 
イエスの死の意味こそが、 
私たちの信仰の中核にあり、 
何よりも尊い価値を持っているのですね。 
 
 
9章は、特にこのイエスの血について、 
非常に深い霊的なイメージが 
詳述されているように思いました。 
 
 
私たちに永遠の嗣業を渡すという 
新しい契約という遺言は、 
贈与する者が死ななければ効力がない。 
 
その、「遺言」の 
一般的な効力について 
聖書においても踏襲されているのには、 
新鮮な思いがします。 
 
私たちの世界の法ですら、 
「遺言」は、死して初めて効力を持つ。 
 
ならば、神の法は 
なおさらそうであるというロジック。 
 
 
イエスがなぜ死ななければならなかったか。 
 
私たちはイエスの死によって 
なぜ、永遠の救いを得ることができたか。 
 
 
この私たちの信仰の中心内容が、 
「イエスの血による贖い」に凝縮されており 
だからこそ、 
イエスの血には永遠の力をもつほどの 
価値があるということが、 
改めて深い次元で理解させられます。 
 
 
イエスの血という 
罪汚れのない、最前最高の捧げ物が、 
私たちのためにささげられたという事実。 
 
 
これこそが、 
イエスを大祭司たらしめているものです。 
 
 
今も天の至聖所において 
私たちのとりなしをしておられ、 
大祭司の働きを担われているイエス。 
 
旧約の大祭司が 
年に一度、血の捧げ物を携えて 
ただ一人で至聖所に入るのと、 
まったく同じイメージをなぞるように 
イエスは天の至聖所に入られたと記される 
霊的な事実はとても印象的です。 
 
 
 
イエスの血の価値が、 
いまひとつ理解できない私たちは、 
生涯をかけて主の支払われた 
尊い犠牲が、私のためであったと 
味わっていくのだと思わされます。 
 
無償でうけとったものは 
やはりその価値の重みがわかりづらいもの。 
 
だからこそ、聖霊の働きによって 
自分の罪を自覚し、 
その罪の処分のために 
イエスが血を流されたと知るならば、 
次第にその価値の重みがわかるようになる。 
 
 
そのような理解をしています。 
 
 
 
主イエスが誰のために血を流されたか、 
それは他でもなくこの私だ。 
 
このように素直に告白できるような 
信仰へと、日々養われていきたいものです。 
 

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