熊本北聖書キリスト教会

熊本北聖書キリスト教会

2017年8月31日木曜日

今日の青年会

今日の青年会。 
 
暑い日が続く中、8月最後の開催。 
 
少しずつ秋の気配が感じられるように 
なってきました。 
 
 
今晩も、シュラッターの 
ヘブル人への手紙講解を読み進めました。 
 
先週までで、やや長かった 
「完全なる大祭司キリスト」 
という、私たちの信仰の 
内容そのものの詳解が終わりました。 
 
私たちは一体何を信じているのか? 
 
という最も大切な部分は、 
毎週礼拝を重ねていても、 
毎日みことばを読んでいたとしても、 
どうしても形骸化してしまうので 
ここまでの学びは
非常に実りのあるものでした。 
 

キリストの血の価値を、 
この私はどれほど理解しているのか。
 
理解しようもないけれども、 
少なくとも理解しようと願っているか。 
 

..こう問われるほど、 
重要かつ新鮮な内容ばかりでした。 
 
 
私たちが信じているはずの内容そのものが、 
あますところなく語られているのですから。 
 
 

また、その神の新しい契約が 
どれほど希望に満ちているものなのか、 
内容を味わえば味わうほど 
私たちに迫ってくるかのように思えます。 
 
 
———————————————————— 
ヘブル10:23 
約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。 
———————————————————— 
 
 
とあるように、 
私たちに与えられている希望を 
告白し合うことが、そのまま励ましになる。 
 
永遠の希望を持つもの同士の集まりが、
他でもなくキリストのからだ、 
教会なのだと思い至ります。 
 
 
そしてこの信仰こそが、 
教会に集うもの同士を結び合わせ 
教会生活を豊かにする土台であり、 
信仰に立つからこそ、 
愛の熱心によって互いに励まし、 
高め合えるわけです。 
 
 
神の家族とはよく言ったものだと思います。 
 
 
そして、今日学んだ箇所は、 
ヘブル書の11章前半。 
 
「信仰」をテーマとして、 
数々の歴代の信仰の先輩たちが 
次々と登場してくるところです。 
 
 
やや形而上的な話になりますが、 
 
「信仰」とは何か? 
 
を、徹底的に詳述する箇所でもありました。 
 
 
 
シュラッターの解説は、 
 
「信仰とは、希望しているものに固着しつづけ、まだ見ていないものを確信することである」 
 
としていました。 
 
 
私たちが身を置いているこの世界は、 
どこか物質主義的で、 
なんでも計測し、なんでも計量し、 
物的に捉えられないものは不確かだとして 
否定しがちな価値観が大半です。 
 
唯物的だからこそ、 
目に見えない神を知ろうともしないし、 
物質至上主義だからこそ、 
人間ですら偶然発生した 
進化の産物だとして疑わないわけです。 
 
 
いざ神のこと、聖霊のこと、 
キリストの死と復活のことを語れば、 
つくりごととして片付ける世の中です。 
 
たとえ眼球・脳で何か捉えられたとしても、 
それは光を捉えただけあって、 
信じるという行為とは違います。 
 
 
肉体で知覚したということと、 
信じることとは 
まったく次元が異なる働きなのです。 
 
 
信じるとは、 
自分の知覚できる領域をはるかに超えて、 
まるごと受容すること。 
 
理屈や根拠など、感覚的な知覚など
一切の因果を必要とせずに 
ダイレクトに霊的内容を受容することです。 
 
 
 
だからこそ、霊の働きである信仰によって 
この世界を創造した神を知ることが 
できるわけです。 
 
感覚器官で捉えたものは、 
あくまで物質的なものでしかなく、 
被造物の領域です。 
 
そこに神はいません。 
 
 
見えないからこそ、 
私たちの感覚器官で捉えられないからこそ 
私たちの霊によって、信仰によって、
霊なる神を知ることができるわけです。 
 
 
信仰は、霊的な行為であり、
見えない神の御言葉を受け止めること。
 
 
まだ手にしていないもの、 
既に獲得したものとして受容すること。 
 
他の一切の説明を必要とせず、 
ただ主体的に、能動的に、 
自分ごととして霊なる神に関わること。 
 
 
 
.. 
 
 
改めて、信仰がなんなのかと 
説明を求められたとして 
うまく答えられる自信はありませんが、 
 
ひとつ言えるのは、 
信仰は、神のみことばを、 
自分の意志以外の一切を必要とせず 
 
「その通りだ」 
 
と言わしめるものだということです。 
 
 
他の誰が何と言おうと、神のみことばを 
「その通りだ」と告白する態度。 
 
それが信仰なのではないか、 
と思わされました。 
 
 
 
あくまで受け身でなく、 
能動的であることこそ 
信仰者の姿なのだと思います。 
 
 
 
この与えられている信仰を、
希望を確信させる信仰を
あくまで握りしめ続けて歩みたいものです。


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