今日の青年会。
暑い日が続いていますが、
体調など気をつけて
過ごされていることと思います。
さて、今日も変わらずに
シュラッターの『ヘブル人への手紙 講解』
の続きを読んでおりました。
今日は10章1~23節。
大祭司イエスの完全性についての続きです。
前回が、イエスの尊い血の価値、
その最高の捧げ物が
私たちと神様との分離を取り除き、
罪をぬぐい去り、永遠のいのちへと導く、
私たちになくてはならない犠牲について
学びました。
今日の箇所も、前回の内容を踏まえており、
基本的に旧約との比較です。
旧約の律法による犠牲は、
獣の血であり、人間以下の存在の犠牲、
しかも、自分の意志ではない捧げ物。
その犠牲は、捧げるたびに
罪の悔い改めへと導く力があったが、
何度も終わりなく捧げなければならない
という、ある種の限界がありました。
尊い形式ではあるものの、
形式の限界には至らないもの。
肉的な清め、表面的な清め。
それが旧約の犠牲の限界だとされます。
それに対して、キリストの血の犠牲は、
どれほどに優れているのか。
単なる血のささげものではなく、
それが私たちの心の奥底に染み渡り、
霊性を清める働きを持ち、
今現在もその力が働く。
終わることのなく、
休む間のない働きに追われる
旧約の律法の定めとは完全に異なり、
ただの一度で罪の清めを完成させる業。
それがキリストのされたことであるし、
それだけの価値がキリストの血にある。
私たちのためにそうされたということ。
キリストの血なしには、
私たちは神の御前に清められないこと。
このような
私たちの信仰の中核の部分が
ヘブル書には明瞭につづられています。
また、非常に重要な
私たちの歴史的な、時間的な位置づけも
書かれています。
キリストが復活され、昇天されてのち、
もう2000年くらい時間が経っていますが、
今はどのような時代なのか?
私たちはどのような位置にあるのか?
と考えることがあると思いますが、
聖書的な理解では、
キリストの再臨を待っている状態です。
また、その瞬間私たちは
完全な姿へと変えられるという約束。
裏を返せば、
今、このままの状態が
完全ではないということです。
信仰を持って、教会に通うクリスチャン。
現実の私たちは
自分の弱さ醜さ罪深さを
いつもうっすらとどこかに感じていて、
地上の歩みにおいては完全な姿ではない。
そのことを、理解し、
受け止めているだけにすぎません。
世の人と何ら変わりませんし、
むしろ悪く見えることだってあるでしょう。
地上の歩みにおいては、
完全な姿ではないのが私たちの現実です。
けれども、
神の前に罪穢れのない姿に変えられる、
完全な姿に変えられる、
その約束が与えられています。
それが、キリストの血の価値です。
すべて罪の処分は、キリストの血によって
完成しており、その永遠の賜物を
受け取る約束を待っているのが、
この地上を歩む私たちの状態です。
私たちの行為や、所有や状態が
私たちを清めるのではなく、
キリストの御業だけがそうするという信仰。
これがどれほど恵みに満ちたものなのかを、
私たちは日々深く味わうべきなのです。
だから、この手紙は、
かさねがさね
この希望を告白し合いなさいと、
励まし合うように勧めています。
どれほどの素晴らしい恵みを受けたか、
その霊的事実の確認をすることが
どれほど祝福に満ちたものであるか
と示しています。
神の御前に清められるためには、
何もすることはなく
ただ信仰によって
イエスの御業を受け止めること。
これがどれほど大きな恵みであるか確認し、
喜びを分け合い、
ますます神のみもとに近づくこと。
この信仰の共同体が教会であるし、
共通の土台なのだな、と
改めて思わされる学びとなりました。
ヘブル書は、
私たちの信仰の中核を
あますところなく記しているので、
非常に味わい深いです。
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