今日の青年会。
暑い日が続く中、
こうして人ところに集まって
聖書を開き、
自分の霊的なあり方を点検するひと時。
集まるからこそ意味があるのだと、
改めて思わされます。
教会も、建物を指しているのではなく、
集まりそのものが本質なのは
こういうことなのかなと感じています。
・・
引き続きシュラッターの
ヘブル人への手紙 講解を読んでいます。
今日で7~10章の、
イエスの祭司としての完全性について
が終わりますが、非常に密度が高く、
霊的な養いを感じることができます。
私たちの信じている内容の核心が、
過不足なく語られているのがヘブル書。
キリストに結ばれることの意味と、
希望とが余すところなく記されています。
特に、なぜ、キリストの血に
それほどの価値があり、
私たちの罪を永遠に拭うものなのか、
キリストが大祭司と呼ばれるのは
なぜなのか、網羅されています。
キリストを受け入れることが、
神との関係を修復する唯一の道であること、
この、普段慣れ親しんでいる
信じれば救われるということの内訳が、
じっくりと心に入ってくるような感覚です。
これまで学んできたのは
キリストの血の価値、
キリストの犠牲の完全性についてでしたが、
今日の箇所では、教会について
が主なテーマでした。
キリストの完全な犠牲によって、
私たちは神の子とされ、
本来の姿に生かされるようになること。
キリストによる贖い(買い戻し)によって、
キリストのものとなること。
それは、散々聞き知っていたことですが、
重要なのは、「そのあと」です。
キリストを信じて洗礼を受けたはいいが、
「そのあと」がなければ意味がありません。
ヘブル書10章の後半は、
かなり手厳しいことばが並びます。
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ヘブル10:25-26
<ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。>
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キリストの血の価値、
犠牲の一回性、永遠性が提示するのは、
想像を絶するほどの希望です。
その希望にあって、私たちは
この地上での困難な歩みを乗り越え、
人生の意味を見出し、
苦しくても喜び耐え忍ぶことができます。
キリストに結ばれ、永遠のいのちを得る
希望が、文字どおり福音なわけです。
この手紙は、
キリストの贖いがもたらした希望によって、
またその確信によって、
互いに励まし合うように勧めています。
単なる神学的な論文ではなく、
現実に迫害を受けている神の家族に宛てた、
励ましの手紙というわけです。
私たちが手につかんでいる希望が、
一体どれほどの価値があるのか
改めて味わい直し、勇気を取り戻し、
励ましあい、大胆に生きよう、と。
そして著者は、互いに集まり合うこと、
愛と善行を促し合うようにと
強く推奨しています。
・・このあたりから、
現在私たちの集う教会のことを
考える材料が提示されていると思いました。
私たちは、愛の熱心によって、
互いに忠告し合っているだろうか?
神よりも人の目を気にして、
波風立てない人間関係に終始していないか?
わがままな自己主張を押し付けるのでなく、
真心からの愛の熱心で、
傷つけること傷つくことを恐れずに、
主にあって勧め合うことをやめていないか?
など、まさに今を生きる
私たちの教会生活に必要な指摘です。
キリストに贖われたことを受け入れ、
その希望を分かち合う兄弟姉妹と
教会生活をどのように過ごすか。
非常に実践的だと思います。
キリストが再度来られるまでは、確かに
永遠のいのちの約束はいただいていますが、
まだキリストに似た姿には
変えられていません。
私たちは、ゴールにいるのではなく、
まだ途上にあるということ。
だから、励まし合い、勧め合い、
互いに希望を告白し合って、
主にあるいのちを捧げ合っていくこと。
この世の真逆を行く、
困難でも喜びに満ちた歩みが
私たちに示されているとは、
なんとも素晴らしい恵みです。
ヘブル書は、
このキリストの贖いの完全性のあと、
信仰そのものについて展開していきます。
信仰は、単なる希望にとどまらず、
努力であり、要求であり、走ること。
そのようにシュラッターは
解説していましたが、
どのような学びがあるのか
11章以降も楽しみです。
いつもお祈りありがとうございます。
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