今日の青年会。
日中はまだ残暑を感じる熊本ですが、
夜風はかなり涼しい秋模様。
気づけば9月も終わりにさしかかり、
秋も深まりつつあるんですね。
あったかい鍋ものが美味しくなりますね。
//
これまで読み進めてきた
シュラッターの
ヘブル人への手紙講解が、
本日が最後となりました。
今日はヘブル書は13章、最後の章で
「キリスト教会の秩序」
というテーマでした。
これまでヘブル書では、
キリストの血の価値、
祭司としての完全性について
旧約と新約との明確な対比において
論じられてきました。
私たちのキリスト信仰の中核をなす、
まぎれもない霊的事実の詳述です。
見事なまでに、キリストは
旧約の律法を踏襲して、
獣の血の犠牲との対比で
自らを完全な捧げ物として犠牲にされ、
永遠の大祭司として神の右につかれました。
・・・このような、
私たちが使徒信条で常日頃唱えている
信仰内容が、ヘブル書には
いたるところに散りばめられています。
そして明らかになった私たちの救いは、
私たちの信じる力ではなく、
信仰をさえ私たちに賜り、
完成されたキリストにかかっていること。
私たちの力には一切依存せず、
神との和解がもたれること。
だからこそ、完全な希望となるわけです。
神との和解において
私たち自身から何か必要であれば、
望みはありません。
一切私たちに拠らないで、
キリストにかかっているからこそ
希望なのです。
この希望を共有するからこそ、
教会はキリストのからだとして建てられ、
みなは兄弟姉妹として
神の家族となるわけです。
この神の家族に属することが
どれほど祝福に満ちていることかを、
私たちはますます
噛みしめないといけないでしょう。
キリストが愛された教会。
主にある神の家族。
この教会認識を踏まえて、
ヘブル書の著者は
兄弟愛と、清い結婚と、
金銭に無欲であることを掲げます。
より実践的なこれらの教えは、
御霊の実が結実したような佇まいでしょう。
キリスト者の生活のガイドラインとして、
自己点検しつつ
自分もキリストのからだ一部として
教会を秩序立てていきたいものです。
ヘブル書は、
純化された信仰内容の凝縮されつつも、
直接的な激励の言葉がたくさんあります。
2000年前にキリスト者であることが
社会的には一切の利益にならなかった時代。
社会的には圧倒的な弱者であった
キリスト者に向けて、
非常に力強いゆるがない希望を掲げ
励ますこの手紙は、
キリスト者として今を生きる私たちにも
深く響いてきます。
キリストのからだとして、
互いに励まし合い、愛し合い、
賛美をささげ合いながら歩むことは、
今も昔もこれからも変わりありません。
実に多くの霊感と確信が得られる
ヘブル書は、
希望がかすむときにこそ読み直したいものです。
//
実は本日でここでの青年会を
一旦の区切りとして終わります。
(第2子の出産を控えているため)
これまで多くの祈りによって
支えてくださったこと、
心より感謝いたします。
ヘブル書10章25節の
「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」
とあるように、
これからも何らかの形で
教会に仕える活動を続けたいと思います。
2017年9月29日金曜日
2017年9月24日日曜日
『キリストの十字架と復活』久保田 周太郎 先生
2017年9月24日 第4主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:使徒の働き3章11~26節
説教主題:『キリストの十字架と復活』
招詞:ヨハネの手紙第一 4章9節
聖書のお話:『タラントのたとえ』
聖書箇所:マタイの福音書25章14~30節
暗唱聖句:マタイの福音書25章21節
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:使徒の働き3章11~26節
説教主題:『キリストの十字架と復活』
招詞:ヨハネの手紙第一 4章9節
神はそのひとり子を世に遣わし、教会学校
その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。
聖書のお話:『タラントのたとえ』
聖書箇所:マタイの福音書25章14~30節
暗唱聖句:マタイの福音書25章21節
よくやった。良い忠実はしもべだ。
あなたは、わずかな物に忠実だったから、
私はあなたにたくさんの物を任せよう。
ラベル:
過去の説教音声
2017年9月22日金曜日
今日の青年会
今日の青年会。
ここのところ秋雨かな?という天候が続いていて、涼しくはなってきていますがやや湿気が多いですね。
夜は涼しげな虫が鳴いている中、今晩も
シュラッターのヘブル人への手紙講解を
読み進めました。
今日は12章の後半。
信仰の先人たちの人生が紹介された、
11章の信仰の章を踏まえての激励の言葉。
私たちの眼の前にある競争を
忍耐を持って走り抜こう、
信仰の創始者であり完成者である
イエスから目を離さないでいよう。
というように、
ここまでの手紙の内容をふまえて
キリストの体として教会に建てられている
私たちを徹底的に励まします。
私たちは、痛みや苦難に直面すると
本能的に拒み、避けようとしますが、
逃げることで成長することはありません。
むしろ、神に対してかたくなになり、
ますます視野が狭くなってしまいます。
このような性質をもった私たちは、
適切な訓練を受けなければ、
人生を台無しにしてしまいます。
言うまでもなく、
子を愛する親は子を訓練します。
人間的な身勝手さにおいて
一時的な訓練を施す肉親である親ですら、
子に愛を注ぐわけです。
まして一生涯たゆむことなく
平安な義の実を結ばせるべく訓練し続ける
創造主である父なる神が、
どれほど私たちを愛しておられるか。
苦難や痛みを通してこそ神を近くに感じ、
子として特別に
愛されていることを思うべきでしょう。
信仰者としての歩みは、
聖書に登場してくる先人たちのように
決してたやすいものではなく、
むしろ困難の方が多いと暗示されますが、
だからこそ著者は読者を激励します。
これは
初代教会のユダヤ人キリスト者たちに向けて
書かれた手紙ですが、
まったく今の私たちに向けられた言葉として
肉迫してきます。
12章の内容は、
10:24-25に要約されているように
まさしく、集まることをやめないで、
互いに勧め合い、愛と善行に進むことを
促しています。
イエスの血の贖いによる、
神の家のメンバーとして神の国を相続する、
その途方もなく大きな約束を受けた私たち。
この世のどこにもない祝福が
約束されている希望があるのだから、
ますます主にあって歩み、
平和と聖さとにあずかろうではないか。
…というように、この著者は何度も
私たちが握りしめている希望を思い起こさせ
目の前にある働きへの活力を喚起します。
主の御名のもとに集い、
同じ神の家のメンバーとして
いつも希望を分かち合うこと。
この喜ばしい姿は、今も昔も変わらない
キリストの祝福に招かれた者たちの特権で、
共に神の安息に導き入れられる共同体です。
身に余る祝福に溢れるからこそ、
この地上の歩みにおいて
感謝をもって主に仕えていくことが
私たちにとって自然で、
また、それが神との正しい関係性です。
今置かれている場や与えられている役割が
どのようなものであれ、
主に遣わされた者として
感謝をもって働きたいものです。
神の家族として、
同じ神に生かされる喜びを分け合い、
祈りに覚え合いながら
励まし合いながら歩んでいきましょう。
ここのところ秋雨かな?という天候が続いていて、涼しくはなってきていますがやや湿気が多いですね。
夜は涼しげな虫が鳴いている中、今晩も
シュラッターのヘブル人への手紙講解を
読み進めました。
今日は12章の後半。
信仰の先人たちの人生が紹介された、
11章の信仰の章を踏まえての激励の言葉。
私たちの眼の前にある競争を
忍耐を持って走り抜こう、
信仰の創始者であり完成者である
イエスから目を離さないでいよう。
というように、
ここまでの手紙の内容をふまえて
キリストの体として教会に建てられている
私たちを徹底的に励まします。
私たちは、痛みや苦難に直面すると
本能的に拒み、避けようとしますが、
逃げることで成長することはありません。
むしろ、神に対してかたくなになり、
ますます視野が狭くなってしまいます。
このような性質をもった私たちは、
適切な訓練を受けなければ、
人生を台無しにしてしまいます。
言うまでもなく、
子を愛する親は子を訓練します。
人間的な身勝手さにおいて
一時的な訓練を施す肉親である親ですら、
子に愛を注ぐわけです。
まして一生涯たゆむことなく
平安な義の実を結ばせるべく訓練し続ける
創造主である父なる神が、
どれほど私たちを愛しておられるか。
苦難や痛みを通してこそ神を近くに感じ、
子として特別に
愛されていることを思うべきでしょう。
信仰者としての歩みは、
聖書に登場してくる先人たちのように
決してたやすいものではなく、
むしろ困難の方が多いと暗示されますが、
だからこそ著者は読者を激励します。
これは
初代教会のユダヤ人キリスト者たちに向けて
書かれた手紙ですが、
まったく今の私たちに向けられた言葉として
肉迫してきます。
12章の内容は、
10:24-25に要約されているように
まさしく、集まることをやめないで、
互いに勧め合い、愛と善行に進むことを
促しています。
イエスの血の贖いによる、
神の家のメンバーとして神の国を相続する、
その途方もなく大きな約束を受けた私たち。
この世のどこにもない祝福が
約束されている希望があるのだから、
ますます主にあって歩み、
平和と聖さとにあずかろうではないか。
…というように、この著者は何度も
私たちが握りしめている希望を思い起こさせ
目の前にある働きへの活力を喚起します。
主の御名のもとに集い、
同じ神の家のメンバーとして
いつも希望を分かち合うこと。
この喜ばしい姿は、今も昔も変わらない
キリストの祝福に招かれた者たちの特権で、
共に神の安息に導き入れられる共同体です。
身に余る祝福に溢れるからこそ、
この地上の歩みにおいて
感謝をもって主に仕えていくことが
私たちにとって自然で、
また、それが神との正しい関係性です。
今置かれている場や与えられている役割が
どのようなものであれ、
主に遣わされた者として
感謝をもって働きたいものです。
神の家族として、
同じ神に生かされる喜びを分け合い、
祈りに覚え合いながら
励まし合いながら歩んでいきましょう。
2017年9月17日日曜日
『いのちの源』久保田 周太郎 先生
2017年9月17日 第3主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:使徒の働き3章11~26節
説教主題:『いのちの源』
招詞:使徒の働き3章15節
聖書のお話:『愚かな金持ち』
聖書箇所:ルカの福音書12章13~21節, マタイの福音書6章19~20節
暗唱聖句:マタイの福音書6章20節
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:使徒の働き3章11~26節
説教主題:『いのちの源』
招詞:使徒の働き3章15節
しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。教会学校
聖書のお話:『愚かな金持ち』
聖書箇所:ルカの福音書12章13~21節, マタイの福音書6章19~20節
暗唱聖句:マタイの福音書6章20節
自分の宝は、天にたくわえなさい
ラベル:
過去の説教音声
2017年9月15日金曜日
今日の青年会。
今日の青年会。
秋っぽくなってきたかなと思いきや、
ちょっと湿気の多い夜。
今日もいつものメンバーで聖書を開くことが出来ました。
シュラッターのヘブル人への手紙講解も、
残すところあと3回ですが、
ヘブル書もいよいよ大詰め。
今日は12章1~8節でした。
11章の信仰の先人たちの人生を踏まえ、
「こういうわけで」と
続くのが12章です。
聖書に登場する信仰者たちが、
どのような境遇にあり、
神と向き合い、信仰を貫いたか。
そして、どのような結末を迎えたか。
聖書には数多くの信仰者が登場しますが、
その人生、生き様は、
私たちと同じ人間だからこそ
よく響いてきます。
同じように人間臭く、
神の前に正しくない存在ではありますが、
それでもなおも神に期待を寄せ、
神からの約束を握りしめているわけです。
そして神の応答を得た彼らの歩みの記録は、
思い悩む私たちにとって
大きな励ましとなります。
こういったことを踏まえて、
神のことばを最後まで握りしめた
信仰の先人たちのように、
私たちもそれぞれ招かれている
信仰の道をしっかりと進もうではないか。
とヘブル書の著者は激励します。
「競争」というたとえで
私たちの信仰の歩みが描かれていますが、
これは普段意識しない、
盲点ではないかと思います。
信仰をもつことが、
どうして競争であるのか、と。
普通「競争」は、
どうしても勝ちたい、獲得したいという
参加者全員共通のゴールがあるものですが、
こと信仰に関しては、
そのような熱心さがあるだろうか?
とふと思わされます。
信仰を持って、教会に通い、
日々を過ごしていくうちに、
「競争」するような熱心さをもって
神の約束の喜びを握りしめているか?
と、問われる箇所です。
イエスがどれほどの苦しみを受け、
私たちに信仰を贈り、完成させたか。
イエスが一体どのような喜びを
目の前にしていたために、
苦しみをものともせず
自らを犠牲にされたのか。
そのイエスの喜びとは、
私たちが神のもとに帰ること。
同じ神の子とされ、
神の家族として祝福を受けること。
このような、神のご計画を
すべてご存知だったからこそ、
主は私たちの罪を処分されました。
私たちがこの地上の歩みで味わう
困難は、キリストの受けた苦しみとは
比べるほどのものでもないでしょう。
どれほどのことを
主がなしてくださったのか覚え、
与えられている信仰を日々点検しつつ
神が与える愛ある訓練として、
置かれた場における働きを
日々まっとうしていきたいものです。
秋っぽくなってきたかなと思いきや、
ちょっと湿気の多い夜。
今日もいつものメンバーで聖書を開くことが出来ました。
シュラッターのヘブル人への手紙講解も、
残すところあと3回ですが、
ヘブル書もいよいよ大詰め。
今日は12章1~8節でした。
11章の信仰の先人たちの人生を踏まえ、
「こういうわけで」と
続くのが12章です。
聖書に登場する信仰者たちが、
どのような境遇にあり、
神と向き合い、信仰を貫いたか。
そして、どのような結末を迎えたか。
聖書には数多くの信仰者が登場しますが、
その人生、生き様は、
私たちと同じ人間だからこそ
よく響いてきます。
同じように人間臭く、
神の前に正しくない存在ではありますが、
それでもなおも神に期待を寄せ、
神からの約束を握りしめているわけです。
そして神の応答を得た彼らの歩みの記録は、
思い悩む私たちにとって
大きな励ましとなります。
こういったことを踏まえて、
神のことばを最後まで握りしめた
信仰の先人たちのように、
私たちもそれぞれ招かれている
信仰の道をしっかりと進もうではないか。
とヘブル書の著者は激励します。
「競争」というたとえで
私たちの信仰の歩みが描かれていますが、
これは普段意識しない、
盲点ではないかと思います。
信仰をもつことが、
どうして競争であるのか、と。
普通「競争」は、
どうしても勝ちたい、獲得したいという
参加者全員共通のゴールがあるものですが、
こと信仰に関しては、
そのような熱心さがあるだろうか?
とふと思わされます。
信仰を持って、教会に通い、
日々を過ごしていくうちに、
「競争」するような熱心さをもって
神の約束の喜びを握りしめているか?
と、問われる箇所です。
イエスがどれほどの苦しみを受け、
私たちに信仰を贈り、完成させたか。
イエスが一体どのような喜びを
目の前にしていたために、
苦しみをものともせず
自らを犠牲にされたのか。
そのイエスの喜びとは、
私たちが神のもとに帰ること。
同じ神の子とされ、
神の家族として祝福を受けること。
このような、神のご計画を
すべてご存知だったからこそ、
主は私たちの罪を処分されました。
私たちがこの地上の歩みで味わう
困難は、キリストの受けた苦しみとは
比べるほどのものでもないでしょう。
どれほどのことを
主がなしてくださったのか覚え、
与えられている信仰を日々点検しつつ
神が与える愛ある訓練として、
置かれた場における働きを
日々まっとうしていきたいものです。
2017年9月10日日曜日
『新しいぶとう酒は新しい革袋に』
2017年9月10日 第2主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記14章13~24節
説教主題:『新しいぶとう酒は新しい革袋に』
招詞:ルカの福音書5章38節
聖書のお話:『よいサマリヤ人』
聖書箇所:ルカの福音書10章25~37節
暗唱聖句:ルカの福音書10章27節
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記14章13~24節
説教主題:『新しいぶとう酒は新しい革袋に』
招詞:ルカの福音書5章38節
新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければなりません。教会学校
聖書のお話:『よいサマリヤ人』
聖書箇所:ルカの福音書10章25~37節
暗唱聖句:ルカの福音書10章27節
あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ
ラベル:
過去の説教音声
2017年9月8日金曜日
今日の青年会
9月に入り秋を予感させる風が吹いて、
汁物が美味しくなってきましたね。
でも、ここのところまた
あの暑い夏を思い出すような暑さ、
湿気があり、まだまだ油断なりません。
今晩もヘブル書を開いて
シュラッターの解説書を読み込みました。
ヘブル11章の7~39節です。
信仰とは何か、を
ヘブル書では実に明快に語っています。
まだ受け取っていない
神からの嗣業を、
すでに受け取ったかのようにつかむこと。
それが信仰であると。
もっと言えば、
信仰は神の御言葉を
その通りだと主体的に宣言すること。
自分と神との関係においてのみ意味をなす、
自分の意志だけが問われる、
形のないもの。
決して人任せにはできず、
自分のこととしてしか語れない
神との関係を示す各自の霊性こそが
信仰なのだということを学びました。
今日は、
聖書に登場してくる旧約の時代の
信仰の偉人たちの箇所でした。
彼らは、この世的には
まったく確証のない神の御言葉だけを
しっかりと握りしめて生き抜きました。
ノア、アブラハム、
イサク、ヤコブ、モーセ…
とイスラエルの歴史に名を残した
信仰者たちは、常に
神の約束を手にしていました。
それが、その人生で果たされたわけでも
ないのですが、
彼らは至福の安息を得て世を去りました。
地上において物質的、
経済的な豊かさを私たちは
無意識に求めてしまうもので、
それこそ神の祝福だと考えがちです。
ですが、聖書の信仰者たちは、
肉体において味わえる安息や豊かさよりも、
神の国において得られる
霊的な豊かさから目を離しませんでした。
キリスト教会の歴史を見ても、
経済的、社会的にも
完全に迫害を受けて苦しみしかない時代。
それでも初代教会から何百年も、
信仰の火を絶やさなかった
信仰の先駆者たちがいました。
地上では何の喜びもないはずの、
キリスト信仰は、
彼らにとっては永遠の喜びだと
死ぬまでして表明し続けたのです。
私たちの今の暮らしにおいては
そのような試練はまれですが、
だからこそ、平凡な日々の中で
信仰の火が気づかぬ間に消えぬように
しっかりとキリストを前において
歩まなければならないと思わされます。
みことばを読み、祈り、賛美をしても
どこかで肉的な豊かさを求めてしまう
私たちは、信仰によって得られる
神の本当の祝福を切に求めたいものです。
汁物が美味しくなってきましたね。
でも、ここのところまた
あの暑い夏を思い出すような暑さ、
湿気があり、まだまだ油断なりません。
今晩もヘブル書を開いて
シュラッターの解説書を読み込みました。
ヘブル11章の7~39節です。
信仰とは何か、を
ヘブル書では実に明快に語っています。
まだ受け取っていない
神からの嗣業を、
すでに受け取ったかのようにつかむこと。
それが信仰であると。
もっと言えば、
信仰は神の御言葉を
その通りだと主体的に宣言すること。
自分と神との関係においてのみ意味をなす、
自分の意志だけが問われる、
形のないもの。
決して人任せにはできず、
自分のこととしてしか語れない
神との関係を示す各自の霊性こそが
信仰なのだということを学びました。
今日は、
聖書に登場してくる旧約の時代の
信仰の偉人たちの箇所でした。
彼らは、この世的には
まったく確証のない神の御言葉だけを
しっかりと握りしめて生き抜きました。
ノア、アブラハム、
イサク、ヤコブ、モーセ…
とイスラエルの歴史に名を残した
信仰者たちは、常に
神の約束を手にしていました。
それが、その人生で果たされたわけでも
ないのですが、
彼らは至福の安息を得て世を去りました。
地上において物質的、
経済的な豊かさを私たちは
無意識に求めてしまうもので、
それこそ神の祝福だと考えがちです。
ですが、聖書の信仰者たちは、
肉体において味わえる安息や豊かさよりも、
神の国において得られる
霊的な豊かさから目を離しませんでした。
キリスト教会の歴史を見ても、
経済的、社会的にも
完全に迫害を受けて苦しみしかない時代。
それでも初代教会から何百年も、
信仰の火を絶やさなかった
信仰の先駆者たちがいました。
地上では何の喜びもないはずの、
キリスト信仰は、
彼らにとっては永遠の喜びだと
死ぬまでして表明し続けたのです。
私たちの今の暮らしにおいては
そのような試練はまれですが、
だからこそ、平凡な日々の中で
信仰の火が気づかぬ間に消えぬように
しっかりとキリストを前において
歩まなければならないと思わされます。
みことばを読み、祈り、賛美をしても
どこかで肉的な豊かさを求めてしまう
私たちは、信仰によって得られる
神の本当の祝福を切に求めたいものです。
2017年9月3日日曜日
『永遠なる大祭司』久保田 周太郎 先生
2017年9月3日 第1主日礼拝
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記14章13~24節
説教主題:『永遠なる大祭司』
招詞:ヘブル人への手紙5章6節
聖書のお話:『赦さなかったしもべ』
聖書箇所:マタイの福音書18章21~35節
暗唱聖句:エペソ人への手紙4章32節
礼拝説教:久保田 周太郎 先生
聖書箇所:創世記14章13~24節
説教主題:『永遠なる大祭司』
招詞:ヘブル人への手紙5章6節
あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。教会学校
聖書のお話:『赦さなかったしもべ』
聖書箇所:マタイの福音書18章21~35節
暗唱聖句:エペソ人への手紙4章32節
お互いに親切にし、心の優しい人となり、
神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、
互いに赦し合いなさい。
ラベル:
過去の説教音声