9月に入り秋を予感させる風が吹いて、
汁物が美味しくなってきましたね。
でも、ここのところまた
あの暑い夏を思い出すような暑さ、
湿気があり、まだまだ油断なりません。
今晩もヘブル書を開いて
シュラッターの解説書を読み込みました。
ヘブル11章の7~39節です。
信仰とは何か、を
ヘブル書では実に明快に語っています。
まだ受け取っていない
神からの嗣業を、
すでに受け取ったかのようにつかむこと。
それが信仰であると。
もっと言えば、
信仰は神の御言葉を
その通りだと主体的に宣言すること。
自分と神との関係においてのみ意味をなす、
自分の意志だけが問われる、
形のないもの。
決して人任せにはできず、
自分のこととしてしか語れない
神との関係を示す各自の霊性こそが
信仰なのだということを学びました。
今日は、
聖書に登場してくる旧約の時代の
信仰の偉人たちの箇所でした。
彼らは、この世的には
まったく確証のない神の御言葉だけを
しっかりと握りしめて生き抜きました。
ノア、アブラハム、
イサク、ヤコブ、モーセ…
とイスラエルの歴史に名を残した
信仰者たちは、常に
神の約束を手にしていました。
それが、その人生で果たされたわけでも
ないのですが、
彼らは至福の安息を得て世を去りました。
地上において物質的、
経済的な豊かさを私たちは
無意識に求めてしまうもので、
それこそ神の祝福だと考えがちです。
ですが、聖書の信仰者たちは、
肉体において味わえる安息や豊かさよりも、
神の国において得られる
霊的な豊かさから目を離しませんでした。
キリスト教会の歴史を見ても、
経済的、社会的にも
完全に迫害を受けて苦しみしかない時代。
それでも初代教会から何百年も、
信仰の火を絶やさなかった
信仰の先駆者たちがいました。
地上では何の喜びもないはずの、
キリスト信仰は、
彼らにとっては永遠の喜びだと
死ぬまでして表明し続けたのです。
私たちの今の暮らしにおいては
そのような試練はまれですが、
だからこそ、平凡な日々の中で
信仰の火が気づかぬ間に消えぬように
しっかりとキリストを前において
歩まなければならないと思わされます。
みことばを読み、祈り、賛美をしても
どこかで肉的な豊かさを求めてしまう
私たちは、信仰によって得られる
神の本当の祝福を切に求めたいものです。
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