熊本北聖書キリスト教会

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2016年11月29日火曜日

今日の青年会

毎週火曜の青年会。



今日も無事に開催できました!



いつもお祈りありがとうございます。




今日は『結婚の意味』第7章の前半。

独身と結婚、というテーマです。






独身者はとえいば、
結婚について
いつも頭から離れない方もいると思います。



特に、「そういう年齢」になれば当然でしょう。



けれど、パウロがここまで結婚の奥義、
結婚の素晴らしさを語るのを学んできましたが

独身も独身で決して侮られるような生き方ではない、と言います。



また、倫理学者のスタンレー・ハワーワスは、

生き方の選択肢の一つとして独身を認めた宗教はキリスト教ではないかとも指摘しています。



今から2000年前、
子孫を残すことが人として当たり前で、

最高の価値とされていた時代、

結婚もしないのはハグレ者、キチガイだったわけですが、

それを全面的に肯定もする宗教が、キリスト教だったわけです。




今の時代は、
子どもを残すという親・家族、
地域共同体などの伝統的価値観に基づいて
結婚することは少ない時代ですし、

自分たちが幸せになるための一つの手段としてしか
結婚が位置付けられていないものですので

パウロが肯定する独身という生き方の革新性にはあまりピンとこないかもしれません。



独身という生き方も、どちらかというと、

「どうせ結婚できないから別にいいや」
という程度の消極的な捉え方でしょうから。





では、パウロの言う独身の何が革新的だったのか。

今の時代の、独身に対する後ろ向きの態度とはどう違ったのか。






…聖書の結婚観と、現代の風潮との根本的な違いは

神様との関係があるかないか、で言い切れるので、

このテーマにおいても神様との関係が改めて問われます。



独身であっても、結婚していても

どちらにしても神様にあってそのように導かれているなら、

それは祝福されいてると言えるのですが、
独身者における祝福とはなんなのか。



それは、神の家族という教会コミュニティに生かされること。

信仰によって結び合わされた兄弟姉妹と歩みを共にできること。

既婚者以上に、神様にコミットできること、ではないでしょうか。


信仰による共同体。文化、人種を超えた神の家族としての暮らし。
これが当時も今の時代も、変わりなく光を放ち続ける神の祝福のカタチだと思います。




独身であろうと、結婚していても、
もし正しい結婚観がなければ
どちらにしても歪んだ人生観を持つことになります。




神様にあって歩んでいるかどうか。


神様が目的をもって結婚を定めたことを理解しているか。




ここが非常に大事で、
結婚を偶像にしないということだと思います。








….今日は、独身でも、結婚していても、

神様にしか私たちの存在の必要を満たせないことを理会して、

主に導かれるまま歩んでいくことの大切さを、

独身というテーマを通して改めて味わいました。






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