熊本北聖書キリスト教会

熊本北聖書キリスト教会

2016年11月8日火曜日

今日の青年会

今日も青年会が無事に開かれ、
聖書に基づく学びができました。
いつもお祈りくださり感謝いたします。


『結婚の意味』の第5章、
「他人」を愛するということ
をテーマに読み進めました。

今更ですが、この本のサブタイトルが
「わかり合えない二人のために」
というのに気がつきました。

そして今回はそのタイトルに応答するような内容で、
結婚が福音の力を必要とし、
福音が結婚を反映しているということが
よくわかるものでした。


誰しも、愛の感じ方には色々あり、
自分の感じ方が必ずしも相手と同じであることはない、
という視点が欠落しがちなのが私たち。
つい、「愛されていない」と相手に要求するばかりで、
既に示されているはずの愛に気づけないこともしばしば。

ただ、愛の言語が違っただけ、ということはよくあります。

一方的に、相手に愛を求めること。
それは逆に愛ある姿勢なのかと問われます。

自分の尺度を疑いなしに相手に要求する姿勢は、
やはり愛ではなく、利己的なわがままだと思うのです。

 「他人」を愛するには、
相手がどのように愛を感じるのかを知る地道な観察、実践が
非常に大事だと学ばされます。

また、結婚において
それぞれの罪ある姿、欠点にまみれた姿が露わにされる「真理の力」 と、
お互いの傷を癒し合う「愛の力」とが必要とされますが、
私たちは「真理」も「愛」も、
歪んだかたちで用いてしまいます。

 真理は確かに曖昧にして覆い隠すことの出来ないものですが、
愛がなければ 、人を傷つけるだけの鋭利な刃物でしょう。
正しければ何を言ってもいい、攻めも指摘も肯定されるわけではありません。

もし、愛がなければ
真理の力は 結婚を破壊するだけのものになってしまいます。

また、一方で
真理の力を軽んじ、物事の本質を見極めず、
相手の罪や欠点などをうやむやにして
静かに見つめることなく容認するだけの愛だとしたら、
表面的な関係にしかならず
霊的な成長にはまったくつながりません。

結婚生活において、真理の力と、愛の力、
これは対立しがちなものでもあるため、
どうしても私たちは実践の現場で「同時に」用いることができません。

愛のない真理。
真理のない愛。

これが私たちの現実ではないでしょうか。


そんな私たちに、聖書は
恵みの力が必要不可欠だと示します。

恵みとは、キリストが私たちの罪のために死なれたという、
神の深い愛のことですが、
この愛に立ち返って初めて
真理と愛が両立する、というわけです。


愛すべき伴侶という関係だからこそ、
お互いの罪性によって傷つけ合ってしまいますが、
ここに赦しが なければ関係を保てません。

そして、その赦しの源泉は、
私たちと神様との関係にしかありません。

キリストの犠牲は自分の罪のためにこそ払われ、
こんな自分であっても赦されているんだということ。
この解放の喜びと愛されているという実感が、
伴侶との溝を埋める唯一の力なのです。

 恋に落ちた二人は、いずれ
現実に戻り、それぞれの生活に歩みを進めます。
そんな時、現実的にどのように愛していくのか、
愛をどのように示し、
相手をどのように赦し、赦されていくのか。

神の恵み以外に、頼るものは見当たりません。


....既婚者には深くうなづけることや、
気づかされ反省させられることが毎回多く、
未婚者には結婚生活への備えになっている実感があります。

それぞれの現場に持ち帰るものとして、
毎回学べていること、
神様が制定された結婚について学べていること、
とてもありがたいことだなと感じています。


これからも学びが祝福されるようにお祈りください。







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